子供生んでいいですね なんて聞いてみること自体、少々ずるいことであるのだと思う。
妊娠するという、ある種公に保障された権利―たとえそれが実務上集団に不利益を及ぼすものであったとしても-について、おおっぴらに眉をひそめることなどできはしないのだと分った上で、またしかもそれが個人的なセクシュアリティーに属する事柄で、異性に少なからぬ戸惑いを引き起こす類の話題であると知りつつ、無邪気を装って口にしているのだから始末が悪い。
上司に聞くまでもなく、私の心は決まっている-私は妊娠するだろう、いや可能か不可能かは別として妊娠を試みるだろう。
にもかかわらずやはり私は、遠足の前の子供のように、わざわざ口に出して何度でも言いたいのだ。私は子供を生みたいんだ、と。
私は子供を生みたい。私は孕みたい。私は受精したい。私は子供を育てたいし、母になりたい。
私の中で出番を待っている、「あなた」の顔が見たい。
そう思うことの快感。思うだけじゃ足りない。
声に出して何度でも言おう。ワタシハハラミタイ。
そう言うことの快感。
口に出すたびに、体中の細胞が相方を探してわらわらと手を伸ばしているのを感じる。
それはこれまでの自分に対する復讐であるのかもしれない。
「お前が男であったなら」という上司の無邪気な呟きがそのまま賞賛であり、「あいつは女だけれども他の女とは違うんだ」という評価の差別性を表面上は指摘しつつも、無意識にはしっかりと取り込んで、事実上無性であることを欲してきた。
「子供はいいぞ。お前もそろそろ生まなきゃなあ。」という問いかけは忠誠心を試されているようで、どこまで働いても信用されないのかと苛立ちを隠しきれず「子供?何ですかそれ。」とロボットのように答えることで体中に張られたレッテルをはがそうともがいてきた。実際レッテルなどなかったのかもしれない。だが当時は少なかった女性医師に対する風評(髪が短ければ女を捨てているといわれ、髪が長ければ仕事ができないという目で見られる、といった類の)を聞けば聞くほど、身を硬くした。
近い将来(子供を産み)辞めると思われている人間に誰が労力と時間を割いて教えるものか-後輩を教えるようになって初めてこの思い込みがいかに偏屈なものであったかを知ったけれど、当時は職場を恋人に持つ鉄の処女であることが対等に扱われる条件であると思っていた。
(後輩の方々にこれだけは知っておいて欲しいけれど、人を教えるっていうのはそんなものじゃない。たとえ相手が明日辞めると分っていても、今日教えることのできる全てを伝えようと思うものだ。この世界の広さ、奥深さ、美しさを愛していれば愛しているほど、手持ちのカードを一枚でも多く見せたいと思う、そういうものだ。)
その一方で、「子供はいい」そう簡単に言ってしまえる男性上司への反発もあった。
育児の全てを配偶者にまかせ仕事に没頭しろくに家にも帰らず、のうのうと「子供はいい」と言ってしまえる無頓着さ。家庭や子育てといったものとは全く無縁な、独身の集団。彼らを支えるのは結婚という制度で買われた家政婦とベビーシッターであるように思われた。
「私の場合代わりに誰も産んじゃあくれませんからね。」
腹立ち紛れにこう返したら「女は大変だよなあ」という同情を受けて、もう言うまいと思った。
「いつかは子供がほしい」なんて口に出すことは、男だけの均質な集団に私が女という異物であることを思い出させ、これまでの努力を無に帰することに他ならないのだから、その欲望は注意深く隠していなければならなかった。少なくとも、組織にとって私が必要欠くべからざる存在になるまでは。
交換可能な歯車であるうちは黙っていよう、そう言い聞かせた。
そのうち、辞められたら困る、そういう人間になる。
そのときこそ胸を張って主張するのだ。私は子供を産みたい、と。
私は大きな心得違いをしていた。
いくつになったって、どれだけキャリアを積もうが、組織にとって必要欠くべからざる存在などいやしない。
ある意味では誰しもが交換可能な歯車に過ぎないし、組織とはそういうものだ。
その一方で、家族のような私たちの組織、一人対一人の結びつきによって成り立っている私たちの小さな組織で、簡単に切り捨てられる人間もまたいやしないのだ。
あのときの私、医師になったばかりでまだ何もできずおろおろしていた私、身を硬くしてがむしゃらに働いていたちっぽけな私、あのときの私も、すでに医師として数年を経た今の私も、組織に対して持ちうる価値は何も変わっていない。
だから私が今子供が欲しいと声にすることができるようになったのは、自分のキャリアに対する安心感からではない。むしろそんなものたいした意味などないのだと知ったときから、私は自由になった。私を支えるのは私の技術や歯車としての能力ではなく、まさにこの私自身、ある部分においては女でありある部分においては男でもありまたそのどちらでもない私、私という存在そのものの価値、いや価値という言い方は適切ではない、存在に対する祝福、慈しみであるのだ。
他人が自分をどう評しているかなど知る由もないが、結局のところ私は無性の存在などではありえず、むしろ「女」性を過剰に発揮した異物として(残念ながら美しく化粧した女神ではなく、その過剰な性エネルギーをもてあます鬼婆のような女として!)機能してきたように思う。どこまでいっても同質とは受け入れがたい異物、だがそのことがいったいなんだというのだろう。
私は私のまま、異物のままその異物ぶりをも愛され、必要とされている。一人一人誰もがそうであるように。
子供が欲しいと思ってもいいんだ。
子供が欲しいと口にしてもいいのだという解放感。
ニンシンシタラ、なんていう恐怖、おどおどとしたセックスとはもうおさらば。
私は自分自身を愛しているし、自分が愛されていることも知っている。
私は何でも選ぶことができる。
何も恐れることはないし、何にも遠慮することはない。
私の敵は、自分にすがりつく自分のエゴだけ。
私は好みの男性と(あるいは女性と)好きなやり方でセックスすることができるし、私のやり方で子供の父親を選ぶことができる。
自分の体を、自分の人生を、どう組み立てどう使っていくのかについて自由に選ぶことができる・・・・・思い通りにならないという可能性の選択まで!
仕事との両立?そんなものくそ食らえだ。両立なんてできるものか。今だって完全な仕事をしているわけではないのだから、両立などと言うこと自体不遜なのだ。「納得いくようにがんばるけれど不完全」って言うことに関しては何もかわらない。そして私は、必要とされている。
迷惑ですかねーなんて神妙な顔をしているけど、本当は全部うそ。
この私が子供生むのよ!なんて素敵。
何人でも何人でもぽこぽこ産んで、子供おぶって外来やるわ。
無機質なオレンジ色の蛍光灯に照らされた清潔な病院、責任という名の鎖、仕事という名の均質な空間を、ぐちゃぐちゃに巻き込んで私という存在で満たしてしまおう。
私のつわり、私の吐き気、私の血、赤ちゃんの柔らかさ、ミルクの匂い、おしっこやうんち、もしかしたら赤ちゃんは重大な疾患をもっているかもしれない!そういういろんなことに、すました顔したみんなを引き込むのだ。子育てに関われなかったかわいそうな同僚たちに私の赤ちゃんの面倒を見させてあげよう。
だって私たちみんな一人一人、本当はそうやって生きているんだもの。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
たくさんのコメントありがとうございました。
自分の気持ちをもう一度見つめなおすきっかけになりました。