またまた ばあちゃんの話題で恐縮です。
ボケ老人を相手にしていると 毎日毎日同じことの繰り返しで それ以外の世界が見えなくなるものなんですねw
というわけで (またまた)ばあちゃんの 本当の家探し の話し。
「お前はそういうけどね おばあちゃん どうしてもこの家が自分の家だって思えないんだよ。何かが違うんだよ。」
ここのところ ばあちゃんのこの言葉について ずっと考えていた。
そもそも私達が 自分の家を 疑うことなく自分の家だと確信しているのは 何故なのだろう。
1年に数回帰るか帰らないかの実家でさえ 疑うことをしない。
隣の家のじいさんは死に いつしか知らない家族が暮らすようになった。
目印にしていた角のタバコ屋は 久しぶりに帰ったらいつのまにかスーパーになっていた。
庭の植木は ちょっと目を離せば ぐんぐん伸びて 半年も帰らなければ 別の家のようになる。
高校生まで私がいた部屋はとうに 物置にされているし 風呂場だって改築した。
母が死に 妹が家を出ている今 父が留守であれば この家を証明してくれる住人すら いない。
時の流れなんか残酷なもので 私達のぼんやりした目では見えないような速さで 家の物理的な側面を変化させていく。
にもかかわらず 私が 私の家の 時を超えた一貫性を 信じているのは
私の家に備わっているはずの「私の家たる何らか」を疑っていないからなのだ。
たぶん 祖母においては その「何か」が崩壊してしまったのだ。
だから その家が自分の暮らしてきた家である証拠の断片をいくら並べて見たところで 「昔家のあったその場所に よく似せて作られた 偽の家」 でしかないのだろう。
しかし 誰しも 不安よりも安心を 彷徨より安住を求めるものであると仮定するなら、なぜ彼女は 我々の説得より 自分自身の不安を優先させるのであろうか。
信じるにたる家族であったはずの我々が ここで一緒に暮らそう と言っているにもかかわらず なぜ彼女は 騙されようとしないのだろうか。
その家が自分の安住できる家であることを 認めたくない何か が存在するのだ。
祖母に 安住を、安心を拒ませる 何かの理由が存在するのだ。
娘を死なせ 自分だけが生き残ったという 罪悪感がそうさせるのかもしれない。
大地が割れるほどの悲しみもまた 彼女を連れ去ることはなく 今までと何ら変わらぬ生活がまた繰り返されるという予感に耐えられないのかもしれない。
どんな理由であれ ともかく 彼女が安住を拒む理由が 彼女の中に存在し それは 我々の手の届かないこと なのだ。
その 彼女が(無意識に)望む不安感を温存したまま 彼女が望む安心を 与えるにはどうしたらいいのだろうか。
「この家は私の家ではない。何か大きなことが起こり 私は私の家を出て この仮の住まいにいる」…これが彼女の求める 不安感 とすれば
「この家は私の家ではないけれど 私がいてもいい場所である」 この安心は 彼女が受け入れるかもしれない。
ここまで考えて始めて 私は私が彼女に何をしてきたのか知った。
葬式のどさくさで 彼女の部屋には今までなかった荷物が運び込まれ
彼女の座椅子は 別の場所に 申し訳なさそうに置かれていた。
彼女の席から見える床の間の琵琶には布が掛けられ
仏壇には新しい仏具が置かれていた。
大きな物の移動や模様替えは慎んでいたつもりだった。
でも 何かが違っていたのだ。
腰の曲がった彼女の視線からしか見えない何かが。
彼女の座椅子に座り 彼女がここ何十年となく見てきたはずの景色を探した。
彼女と過ごした日々を思い 懐かしいテーブルクロスを物置から出した。
古い仏具を出し 彼女が元気であった頃そうしていたように 仏壇にいっぱいの花を供えた。
これが ここ2日の私の仕事。
そして
ああ これだけは御報告したいです。
退院してきた彼女が 開口一番なんて言ったと思いますか。
「ああ おばあちゃんの 家から みんな持って来てくれたんだねえ。
おばあちゃん しばらくは ここにいて いいんだねえ。」
ボケ老人を相手にする時の鉄則。
必要以上に喜ばないこと。 明日には裏切られるから。
必要以上に悲しまないこと。 明日には変わるかもしれないから。
分かってるんだけど…いいよね。 ちょっとくらい 喜んでも。