あの満月のように、どこ欠けるところない完全な幸せなどあるものだろうか。
いや満月すら、その存在の根本に影を抜きさし難く含んでいるではないか。
完全な正義は実行不可能であり、涙のない平和はどこか深いところで病んでいる。
孤独のない愛は独善であり、飢えのない賢さは薄気味悪い。
冬のない土地に於いて春は憧れの詩にすぎず、夜が闇を忘れれば暁は過去の記憶となる。
悪のない世界に笑いはなく、笑いのない人生に導きはない。
そして禁断の酒を失った世界にかつての輝きはもはや、ない。
バー「shocker」はいつの間にかひっそりと店じまいをしていた。
プラスチックの欠けたHeinekenの電飾看板がアスファルトの歩道にしがみつく様にぽつりと置き去られている、それだけがバー「shocker」の記憶をかすかにとどめるのみである。
だがそれすら、次々と華々しい花輪とともに新しい店が開店しその多くが覚えられるより早く忘れ去られているこの街にあっては、あまりにありふれた風景であり、足早に過ぎ去る人々をいかなる感傷にも導きはしない。
掃除する者のいない古びたビルの入り口は、足のもつれた酔いどれが同じく他の酔いどれに蹴飛ばされずに一服するのにちょうどよいのだろう、黒ずんだガムのこびりつくレンガを模した階段からはかすかに吐物の臭いが漂っている。
あの頃私はそのバーに三日と開けず通いつめていた。ロマンスグレーの寡黙なバーテンの出す緑色の酒がその理由であった。名前は、知らない。結局聞かずじまい だった。いや、名前はないのかもしれない。物から霊力(ちから)を奪い古籠に閉じ込め飼い馴らすのが名づけという行為であるのなら、酒には名前をつけない のがよい。
今から思えばその酒は魔女の指先から紡ぎだされる呪のようなものであったのかもしれない。ならばなおさら名前はいらぬ。名づけ得ぬものとの出会い、それこそが今我々に欠けていることなのだから。
この街を離れてから、仕事帰りにふらりとバーに立ち寄るという習慣を捨てて久しい。誰もがこの街の正当な住人であるような顔をして、しかしその実誰もが故郷を別に持つ通りすがりに過ぎない。あの頃この街はいつもどぶの様な匂いがしていた。華やかなネオン、裸にコートをまとった女たちの嬌声、花屋はどこも深夜まで開いていた。そして足元の溝には死んだねずみと投げ捨てられたタバコと。どこにいっても同じことだった。そしてコートのポケットに手を突っ込んで俯いて歩くのは私だけではなかったはずだ。酒をあおらねば越せない日々でもなかったはずだ。
にもかかわらず私は吸い寄せられるようにこの街に足を運んだ。
重い木の扉、薄暗いそこここを空気のように満たすジャズの音、バックバーに並べられた壜には琥珀色の液体が幾百年の時を夢見、私はそこから気まぐれのひとしずくを譲り受ける。世界が次第にゆるんでいくのは、回り始めたアルコールのせいなのか、あるいはまた琥珀色の液体の夢に誘われ束の間焦燥を忘れるためなのか。
潤んだ目に映る世界は輪郭を失い私の思考は私の中へと潜水していく・・・深く・・深く。
そんなある日のことだった。BJが私の前に現れたのは。
BJはバー「shocker」のマスターだった。あの緑色の酒を私に与え、私を笑ッカーに改造したのは彼であった。だが・・・そうなることを求めていたのは私自身ではなかったか。琥珀色の液体の並べられたバックバーの後ろ、薄い羊膜を隔てたすぐ向こうに広がる笑ッカーの世界、悪と笑いの秘密結社に、行き詰ったこの世界からの逃げ道を求めていたのは。
かつて「shocker」のあったその古いビルの前でどのくらい佇んでいたのだろうか。ふと我に返った私の目に
一枚のポスターがうつった。ありふれた求人広告・・いや違う、これは・・。
多分私は気を失っていたのだろう。目を開けるとそこは枯れ草の広がる荒野であった。赤い月が佇む岩をじっと照らし、時折強い風が赤い砂煙を吹き上げ、彼方へと去っていった。私はまっすぐに歩いていった。どこに行くべきかを知っているかのように。
立ち枯れた大木が長く影をひき、赤い岩が夢見るように静地していた。大きな鉄の釜が火にくべられ、そこに満たされた緑色の液体をゆっくりとかきまわす一人の男・・BJがいた。
―お待ちしていましたよ。
懐かしい微笑とともにそう言った男の目は月と同じ色をしていた。
―ここがそうなの?
―いいえ。ここはあなたの幻想にすぎません。これを強く望むあなたの心が作り出した幻影です。
―ずっと探していたの。でも見つからなかった。
―そのはずです。あなたは忘れ去ろうとしていたのだから。
―怒っているの?BJ・・
―いいえ。だってあなたはここに来た。あなたは知っているのだ。世界には双子の闇がいることを。築き上げられたバベルの塔は笑いとともに崩されねばならぬことを。掴みきれぬもの、名指せぬもの、覆すものがあるということを。
私の身体は波打ち赤い月が胸を照らす。
―さあ、もうお戻りなさい。笑ッカーはいつでもあなたとともにいます。世界の果ての果て、地球をぐるりと一周して、そう、あなたのすぐ後ろに、薄い羊膜を一枚隔ててこの世界はあるのです。笑ッカーとしての任務を忘れずにいなさい。小さな悪と大きな笑いをなすこと、そうやって世界に穴を穿つことを忘れずにいなさい。
BJはそういうと
鰹の背にまたがり荒野の彼方に姿を消した。
そう思い出した。最後にバー「shocker」を訪れたときのことを。BJは言ったのだ。あなたが忘れずにいれば笑ッカーはいつでもあなたと共にいます。求めることを恐れずにいなさい。探し続けることに飽きずにいなさい。一人であるという見せかけに惑わされずにいなさい、と。
以前よりもずっと幸せになった私達は以前よりずっと孤独になった。あの世界への扉は鼻先で閉じられ、もはやその扉がどこにあったかすら誰も知らない。
法と規制の網目は私達をがんじがらめにし見かけ上の平和を築いた。名づけえぬ世界への憧れのために耳を切り落とす者はもうどこにもいないし、美と名誉のために己の胸を貫いた刃は、ヒステリックな正義を叫び、他者を墨で塗りつぶそうとしている。
だが私は知っている。琥珀色の液体の並べられたバックバーの後ろ、薄い羊膜を隔てたその向こう、その向こう、その向こう。その向こうに名づけえぬものの世界、笑ッカーの世界があるのだ。
さあ午前1時をまわる、最後の客が出て行く、私の前に緑の液体がことりと置かれるのをじっと待つ。
今日も月が、赤い。
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懐かしいポスターを見かけたので。久々の創作です。
以前このサイトは「しんぞうのおんな」と名乗っており、それが悪の組織笑ッカーによって「酒造のおんな(錦)」に改造されてしまったことがありました。4年前のことです。
これは、その際に書かれた
酒造のおんな(錦)誕生秘話の続きになります。
笑ッカーについては
こちらをどうぞ。
また笑ッカーの隊員募集は
こちら (笑)
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