はまっている、というほどではないけれど、仕舞う場所が定まらず居間に置かれたままになっているからついつい手に取るはめになるのだし、結局一人ぼっちの時間をそれを弄って過ごすことが多くなった。
時間、といっても大した長さじゃない。うーんと背伸びをしたままうとうとと眠り込んでしまった彼の横で、あるいはまた、食事の後煙草を吸いに外に出て行ったその隙に、あるいはまた、あらやだ灯油がきれるじゃない、明日の朝までもたないわ、なんていう夜になっての私のぼやきに慌ててポリタンクを積み込んで遠ざかるエンジン音を耳で見送って。
相方の帰りを待って家で一人過ごす時間は圧倒的にあばらの側に多く、その静けさ、がらんとした家の広さを思えば、自分の居ぬ間を彼がどうやって過ごしているのか恐ろしくて想像することすら憚られるのだけど、彼のほうは自分の不在に妻が家でひとり何をしているのか、なんの不安も不思議もなく知っている・・・妻は積み木を積んでいるのだ。

積み木で曲線を描けるか?
45度の三角形を使う限りこれ以上小さい弧を描くのはむつかしい。辺と辺がすべって重なり合ってしまう。おしくらまんじゅうのようなものだ。小さくまとまろうとすればはみ出しが出る。うむ、間に四角形を入れればよいのか?とひらめいた直後、居眠りから目覚めたあばらの足で砂塵と化す。
積み木を支えるのは面である必要はない。積み木どおしの接点は線でよく、面は摩擦を生じさせるためにのみ使えばよい。真ん中の細長いものだけが例外的に使われているように見えるけれど、これもまたずれようとする二つの力を上から押さえつけている。バランスとは摩擦と重力のことだと知る。

ちょっとずるいようだけど、接地面が滑り易い畳であるのは大きな不利なのだ。畳からフローリングに場所を変えるずるさを許すなら、本を二冊使うずるさもまた許されるべきだろう。床との摩擦を増やすだけで、世界はぐっと広がる。もう四角い積み木を横に置く必要はなくなった。可能性は高みへ広がる。積み木を人に例えるなら、科学とはこの本のようなものであるべきだろう。その力を過信して土台を任せ、高みばかり目指すことになれば、思わぬところで全てが崩れ去るといった点においても。

色つきのものと木肌のものとでは、滑りやすさが全然違う。角の磨り減り方もひとつひとつまるで違う。違うものを組み合わせて対称を作り出す難しさ。おおまかな振る舞いとしては左右共通、全体としてひとつの秩序に収まっているように見えて、その実、ひとりひとりは微妙に自分の居住まいを変えて、座りよい微小環境を作っている。そのゆらぎを許すおおらかさが、全体としてはひとつの秩序を作り上げるのだ。個性とはおよそそのようなものではないか、と思う。棒の上に乗る三角形の危なげなバランスが、一見ないに等しく見える彼らの個性の大きさを物語っている。完璧を期してこの三角形を美しい位置に置こうとすれば全てが崩れ去る。個性なのかわがままなのか、というよくある問いの答えのひとつが、ここにあるように思う。