ピザだとかハンバーガーだとか、それもいわゆるチェーン店の、都市伝説に言う実はミミズのすりつぶしを使っているだの床に落ちたものだってそのまま配達するのだという噂もさもあらなんと思うような雑多で安易で習慣性のあるものを、口にしたいという衝動は、いわゆるおいしさうまみ豊潤な食卓の贅沢さとはまた別に、現代を生きる我々の生活に必要とされるスパイスなのかもしれない。ましてや長い一人暮らし、男だから女だからは関係なく、コーヒーやビールと同じように生活の一部として組み込まれていたってなんの不思議もない。
だが、生きていればよい食事ではなく、生活を作る食事なのだ。めったに帰れぬめったに会話もできぬめったにたいしたことをしてやれぬ、やれぬやれぬの悔いが私をかさかさにし涙目にし意地っ張りにする。
私とて、いや人並みはずれて食事に無頓着であろうと頓着してきた私だからこそ、3食7日4週間ピザとハンバーガーとカップラーメンで生きる快感を知っているのだし、本来楽しみであるべき食事について健康だとか環境破壊だとかグローバルカンパニーの経済独占だとかややこしいことは言いたくない。
言いたくない、言いたくないが募って行動で示そうと思えば無理が出る。無理を認めたくないから意地が出る。意地を無言で貫き通した結果、ジャンクフードはますますジャンクフードの輝きを増して手強い敵となる。
ピザをたまには頼もうと言う、たまにはハンバーガーが食べたいと言う、承知するとこちらが恥ずかしくなるほどの手放しの喜びよう、そんなに好きなら勝手に食べればよいではないかと思う。私だって職場では何を食べているか口が裂けたって言えないのだ。それを私にすべて告げて、許しが出た上で二人で食べたい馬鹿正直さ。”二人で”が大事なのだと知りながら、その喜びように私はますます意地になる。ますます嫉妬深くなる。
一緒にスーパーに行った折、フライドポテトが食べたいのだ言う。冷凍のそれを手に取る彼に、それだったらうちに生のジャガイモがあるからと言い渡し、早速その晩フライドポテトを作った。
初めて作るそれはべっちゃりぐったり、お世辞にもおいしいと言えるものではなかった。これだってなかなかいける、初めてとは思えない、なんとかかんとか慰める彼と不機嫌に無言で食べる私。
腹を立てていたのは上手にできなかったからではない。フライドポテトが食べたい彼の言をわざわざ読み替え、フライドポテトを作った自分の浅ましさ、嫉妬深さに腹を立てていたのだ。彼が食べたかったのは冷凍のポテトの冷凍ぶりであろうし、きっと本当はジャンクフードのジャンクであろう。わざわざ夜中にフライドポテトを揚げるのは、やれぬやれぬの悔いとその悔いをなぜ分かってくれぬのだという無言の抗議、そして何よりも切ないほどの嫉妬なのだ。
幸田露伴の妻はお幾美は、食べたことも見たこともない西洋料理を、料亭で味わったという夫の土産話の二三日後にはほぼ原品に近い出来栄えで膳に載せたという。娘の文はその母のひたすらさを、愛であろうか義務であろうかそれともできないことはないという天狗の鼻なのだろうかと述懐している。家事全般何事につけても完璧なこなし方をしたというお幾美になぞらえるつもりは毛頭ないけれど、ただその気持ちの底にある切なさは私の心を縛るこの切なさと、(真っ直ぐであるのか捻じ曲がっているのかの違いはあっても)どこか似ているのではないかと思う。
↑休日のひとりの練習の成果。
動機は捻じ曲がった嫌らしいものであったとしても、練習をひそかに重ねて仕上げた物そのものの美しさに、結局は救われるのだ。
もうしばらくジャガイモは見たくもないけれど。