ここにいらしてくださっている方はご存知かもしれませんが、私はこういう食べ方が大好きです。丸ごと、できるだけ手をくわえずに、という態度が好きなのには違いませんが、それだけではなく、このシンプルさが今の私の分に見合っていると思うのであります。
ただ煮ただけ、焼いただけ、調味料もだしに一つまみの塩、胡椒、醤油、みりん。使い慣れたものを少しだけ。それ以上のことは、まずはこの基本ができるようになってから、私にはまだ早い、そう思うようになりました。いや、たくさんの調味料や材料を混ぜて使うは楽しいし、簡単においしく作れるのは確かですが、それこそ自分の未熟さの隠蔽故ではないかとそんなふうに思うのです。
玉葱を、煮る、焼く、炒める、それぞれの動作によって何が起こるのか、季節による違い、産地による違い、種類による違い、そういった基本を学ばずしてただ道具を振り回すようであれば、その味は浅く経験としても深みを知らぬものになることを、この歳にしてやっと思い知ったのであります。(基本の糸結び、縫合、剥離がをまともにできない者が、複雑な手術を仕上げることなどできましょうか。)
生きてさえいればそれでよいのだと、つい一年半前まで外食、カップラーメンの日々であった私が今更こんなことを思うのはばかばかしい上におこがましい話ではあるのですが、どうせ命を頂くのであれば一番おいしいところ、よいところを引き出して真向かいたいと思うのであります。そのために必要な知識や技術があるならば、どうしてそれを学ばずにいられましょうか。
食事というのは日常を支える最も基本的な動作でありながら、しかしその一方で、日常とは対極にある、ある種の「ハレ」ではないかと思っています。火と水と刃、塩、そして奪われる命。台所こそ命と命が火花を散らして結びつく臨界ではないでしょうか。
私は今、目の前にある玉葱も自分の身体も全く同等の存在としていとおしく感じております。玉葱の甘さと、空腹の懐かしさをどちらもしっとりと愛しており、その両者をふんわりと結びつける術を身につけたいと思っていますし、それはとりもなおさず、世界の手触りを感じながら生きるということではないのかと思います。
術というのはすべからく、世界を素手で掴み取らんとする試みではないか。医術然り、そして料理然り。それは時間と共に遣い捨てていくような日常性の中に埋没させるにはあまりに惜しい、財産であるのだとやっと知るようになりました。そして私はそれを学び得る立場にある!
この歳になってこのようなことを考えていること自体大変恥ずかしいことではあるのでしょうが、まあ、気付きに年齢は関係ないと申しますし、そもそもブログというコミュニケーションツールと出会ったからこそのこの気付きであるのだと、しみじみと自分に残された時間、可能性を考えるのであります。
ここを始めてから今日で三年。
あの頃には自分がこのようなことを考えるようになるとは思いもよりませんでした。
ありがとう。
追伸:
一度書いた文を訂正しようとして、下半分を削除してしまったようです。
思い出せる範囲で書き直しました。はじめにコメントくださった皆様、すみません