というわけで問題は「責任の所在」である。
確かに医療行為は医師の指示に基づいて行われるのが基本だからその責任は医師にあろう。だが医師といえども病院に雇われている一職種に過ぎないのだから、「責任の所在」が雇用主たる病院を越えるはずはないのではないか、と思ったら大間違い。
医師は、給与体系においては雇われであっても、職業倫理的には雇われではない。
病院ごとに定められている医療事故防止マニュアルには、大抵「診療契約は病歴聴取とともに自動的に成立しており(債務を負うことになる)、治療が完了するまですべては主治医の責任となる。また、看護師やその他の職員が実施した医療行為についても最終的な責任は主治医にある。」といった感じに主治医の責任が明記されている。(主治医の責任は病歴聴取とともに自動的に始まるのに、医師には診療拒否の権利は認められていない。)
主治医は、その患者の入院中のすべての出来事、存在全体に対して責任を負うとみなされている。主治医は病院という組織の中にありながら、その責任においては組織を超え出ているのだ。(注目すべきは責任の主体が、診療チームや医師チームではなく主治医という個人に負わされているという点だ)
個人情報保護の責任も主治医、トイレで転んだ責任も主治医、退院先のない患者の責任も主治医、セクハラをする患者の強制退院の責任も主治医、パン食の患者にお粥が出された責任も主治医である。チーム医療チーム医療と謳いながら(実際数え切れないほど多くの職種、院内チーム、院内委員会が患者一人に関わり、口を出し、作業を分担している)結局全ての行為の最終責任を主治医に押し付ける傾向はますます拡大するばかりである。
その患者が病院内に存在する間におこった全ての出来事の責任を問われる(そう、精神疾患以外の患者の自殺さえも)のが主治医なのだから、滅私奉公精神を批判されようとも、怖くて休暇など取れようはずもないではないか。しかもその責任は近頃刑事訴訟という形でとらされかねないのだ。
その点看護部や事務方は偉い。「その責任はとれませんので私達ではできません。先生がやってください」と組織として言い放つ。そりゃあそうだ。医師の指示のもと一歩間違えば訴えられるような危ない事をやらされたんじゃかなわない。たとえそれが必要な行為であったとしても、指示したお前が自分でやれよ、という気持ちはもっともだ。増える医療訴訟からいかにして個人を守るか―その意味で看護部や検査部といった職種の組織は非常にうまく機能している。
だが医師はだれからも守ってはもらえない。個人としての医師を守る上部組織は存在しない。(守ってもらえぬどころか近頃は雇い主である病院からもとかげの尻尾のように簡単に切り離されるようである。)そもそも最終責任が自分にあるのだから、できませんで逃げるわけにはいかない。具体的行為の責任も、行為の選択の責任も、結果の責任も、自動的に負わされ、はじめの契約の時点で選択権も拒否権もないのだから、こんな割に合わない契約はない。
医師の過重労働を解決するのに、主治医制の問題は避けては通れない。リスク管理の立場から責任の所在を明確化するというのは分からんでもないが、「すべての」責任をひとりで追うには現代の医療は高度細分化されすぎているし、サービスとしても求められているレベルが高すぎるのだ。
人一人が自分の持ちうるすべての時間を捧げつくしたとして、目の前のたったひとりの患者がうける病院サービスの全ての責任を負えるだろうか。しかも医師一人が抱える患者の数は一人ではない。症例経験数と医師の能力とが比例し、一例でも多くを執刀するのがいい医師ならば、私達はいったい何人分の人生を医療に捧げるべきなのか。
私だって本当は目の前の患者さんの存在そのものに、人生そのものに、関わっていたいと思う。患者さんが抱えた不安、悩み、社会的立場、家族の問題、それら全てを共有し、できることなら癒してあげたいと思う。提供する医療サービス全てを見渡し、責任をもって提供してあげたいと思う。だがそれは傲慢な願いである。手術技術の維持・向上を目指さねばならぬ心臓外科医でありながら、(本来の意味での)主治医であることは、そう、「ひとりの人間として」全く不可能なのだ。
極端な例をあげれば、患者さんが亡くなるとき主治医がそこにいるのは当たり前のように思われているし実際それを欠かしたことはないけれど、在院中に亡くなる患者さんは決して珍しいことではないし、患者さんは何曜日でも何時でも亡くなりうるのだ。どういう勤務形態をもってしてその当たり前を可能としているのか、考えずともわかることだ。もっといえば患者さんは何時でも急変しうるし、何時でも転倒しうるし、何時でも不安になったり不眠になったりするものだ。当然そのどの時にも「なぜか」居合わせるのがいい主治医である。
「主治医はその患者のすべてに責任を負う」とは美しくそして厳しい言葉だ。医師であれば誰だってこの言葉の荘厳さに背筋を正さずにはいられないだろうし、批判の的となっている滅私奉公精神もこの言葉の重さゆえである。
主治医制度の美しさは、もっと医療が単純で信頼関係のみに基づいて行われていた昔の理想だ。医療サービスが契約関係となりつつある今、主治医制度は医師の過重労働の根源とさえ言っていい悪制となった。(一体誰が「(ある一定期間の)あなたの存在すべてに個人として責任を負います」などという恐ろしい契約書に署名をするだろうか?)
残念ながら(そう、本当に残念ながら、なのだ)、主治医制度は返上したい。悔しながらギブアップである。私には、無理だ。そしてたぶん多くの医師にとっても。医師として、こんな残念な、こんな悔しいことはない。医師として最も大切な最も根本的な何かを失うのであろうとは思いつつ、それが時代の要求なのだ、とも思う。すでに医療は仁術ではなくシステムであり、その複雑さ高度さは一人の人間が責任を負える範囲をはるかに超えている。
飛行機が墜落したとき、操縦ミスならともかく飛行機の整備ミスを機長の管理責任とするだろうか。私達医師は、飛行機に乗り込む前に飛行機の全ての部品をチェックしサインしさらに入り口で乗客一人一人に挨拶をする機長のようなものだ。もちろんこの機長は飛行機が着陸するやいなや、出口に先回りして乗客一人一人を笑顔で見送り、乗客が乗り込むタクシーの道中を案ずる。機内食で食中毒が出れば、機長が記者会見で頭を下げる。
せめてチケットを売る人、搭乗規約を説明する人、ライフジャケットの着方を説明する人は別の人にしてもらえまいか。機材の整備を見守りサインをするのは別の専門職種でもよくはないか。機長の署名がなくてもそれらの行為を分担するシステムにできないものか。
「医療はひとりで行うものではない。」チーム医療を支えるこの素晴らしい理念を仕事量の面からも責任の所在の面からも、文字通りの正確な意味で実現するべきではないか。
医療サービスを病院が提供するものと考えれば、最終責任の所在は病院にあろうし、国が提供するものと考えれば最終責任は国にあろう。病院は医師雇用の権利をもって責任を負うのだし国は医師免許交付の権利をもって責任を負う。
具体的行為の責任者としても組織が当たるべきである。手術の責任は外科医チーム全体にあろう(そのためのカンファレンスだ)。退院先探しの責任はソーシャルワーカーチームであろうし、セクハラ強制退院の責任はセクハラ対策委員会および病院にあるのではないか。なぜいちいち医師の署名を必要とする?医療行為同意書取得は院内に専門の人間を配置するべきだ。(医療行為の説明は医療行為を行う医師がするにしても、同意書取得は別の話だ。患者は契約を医師個人ではなく病院と結ぶのだから。第三者同席の意味でもそうするべきだろう。)
肥大化した医療システムの中で医師個人が担える役割など、(中心であったとしても)極めて小さい。小さいということを、社会も医師自身も認めることが、医師の過重労働を減らすに不可欠であろう。