ブログすごろく、やっと95まで来ました。
【95.今まで一度もブログに書いた事のない話】
軽々しく話すことではないので黙ってきたけれど自分の体験なら話してもいいよね。
というわけで、中学校の頃の話です。
状況は当然個々によって違うから一般化はできないけれど、あの頃私が何に絶望していたか、って話。
中学校1-2年のときクラスの女の子から「シカト」されたことがあった。その時の感覚だと「クラスのみんなにシカトされた」と書きたいところだけど、今冷静に振り返ってみると、たぶん実際に「シカト」に加わっていたのは女の子の6-7割くらいだったんじゃないかな。残りの3-4割はというと、そういうクラス内の人間関係から離脱した物静かな子たちで、シカトがあろうとなかろうとそういう子たちと話す機会はめったになかったから、感覚としてはやっぱり「みんな」だったと思う。上履きにマヨネーズを入れるとか、体操着を隠すとか、トイレについていって覗く、なんてのもあったと思う。その頃ちょうど初潮がきて、だからトイレに付いて来られるのはとても恥ずかしかった。
「一人で悩まないで誰かに相談しよう」っていとも簡単にいうけどさ、それってすごく難しい。先生はみんなの先生で私一人の先生ではないわけだし、ただ嫌がらせされるだけなら一方的な被害者だけど、先生に相談したら「卑怯者の被害者」になってしまう。みんなと仲良くできる子がお母さんは好きなわけで、シカトされてるなんて言えるわけない。何も知らない昔の同級生は何も知らないままでいて欲しかった。何よりも「いじめられている」なんて、そんな、恥ずかしいこと、誰かに言えるわけない。
先生や親や友達に相談して、うまくいくことはきっと一杯ある。だからできるなら、勇気を出して相談して欲しい。でも大人の私達は、相談してもらえることを前提にしていちゃだめだ。いじめられているとき、その子は、いじめているみんなと戦う以上に、いじめられている自分と戦っている。自分が、自分だけが、いじめられているという状況。もがいてももがいても抜け出せない、ということ。みんなとは違う自分。みんなも嫌いだけど、なによりも自分が嫌いだ。
自死に至るほどの苦痛は世界に対する絶望によってもたらされる。世界-あいつらだけじゃなくて私も含めたこの世界、この世界が嫌いなんだ。(あいつらだけが憎いならば、なにも死ぬ必要なんかない。)死ぬ気になればなんでもできるはず、なんて、分かってない。死ぬ以外に、世界を抹殺する方法があるなら教えて欲しい。体中にまとわりつくこの嫌悪感(それはあいつらによって植え付けられたものだけど、今や私自身のものとして内在化されている)、蛆の涌いたこの体を消滅させる方法があるなら教えて欲しい。
いじめをなくそう、というけれど、いじめがない社会集団を思い描けるだろうか。・・・少なくともあの時の、中学生の私にはできなかった。集団には常にスケープゴートが必要であることを誰よりもよく知っているのは子供達だ。固定された集団に必然的に生じる鬱屈したストレスを、中学生の私(いやもっと小さい頃―小学校低学年の頃には)は身をもって実感していたし、それをスケープゴートというかたちで発散させるのは必要悪であると(無意識に)思っていた。世界にはこの構造が必須であり、そしてなぜか、自分がそのスケープゴートに選ばれてしまい、誰もがそれがあたかも当たり前のことであるように振舞っている。ア・プリオリに私はスケープゴートであり、それ以外の存在が許されていないということ。死ぬ以外に刻印を拭い去る術がないということ。そしていじめられっ子から脱出するには新たなスケープゴートを用意するしかないという絶望。
ちなみに私がこの嫌がらせから免れたのは軽蔑によってだった。(たぶん本当に偶然から。あるいは身の置き所を確保し生きながらえた結果時間が解決するのを待つことができたから。)
はじめはクラス全員の名簿をもとに力関係を書き出し、戦うべき相手を見極めようとした。中心人物は一人であった。その一人を私のかわりにスケープゴートの地位に落とすシナリオを書きながら、思うところがあった。闘うべき相手は彼女ではなかった。彼女は神輿にすぎず、本当の敵は彼女の取り巻き・・群集であった。ひとりひとりを思い浮かべても毒にもならない奴らが集団となったときにもちうる力、だがその責任は彼女達ひとりひとりにあるのではなく、クラスという不自然な集団に必然的な構造にあり、私が闘うべき相手はこの構造であると知った。そうでなくては、仮に代わりのスケープゴートを用意したところで(実際にあの状況からそれが可能であったとは思えないが(笑))私が被害者(―加害者という名の被害者)であることには代わりはないのだ。誰もが皆、人間集団を支えるこの亡霊の被害者であった。(当時の私にはこの亡霊が人間集団の維持に必要不可欠なものと思われた。)
そしてこの構造を維持している最も大きな敵は自分自身であることも知った。群集の一員になりたいと願う私自身の欲望が、この亡霊に栄養を与えていた。
「軽蔑せよ」私はノートにこう書きつけた。群衆を、群集に混じりたいと思う自分自身を、つまりは(当時の私にとっては)人間でありたいと思う自分自身を「軽蔑せよ」。中学生にとって群衆に混じりたいという思いは友達が欲しいと同義語であった。だから言葉はこう続く。友達が欲しいという思い、分かって欲しいと思う気持ちを「軽蔑せよ」。
被害者になりたくなければ、そして加担したくなければ、集団の一員であることを拒否するほかない。「私はあんたたちの一員には、ナラナイ。」
だがいくら拒否しても、いや拒否すればするほど、人と人とのつながりは一層鮮やかに私を魅了した。孤高を気取ったところで「分かり合える」瞬間に酔っている自分がいた。私は友を必要としていたし、驚くべきことに友も私を必要としていた。必要が先んじて緩やかに結び付けられた小さな関係において、脱落という怯えはなかったし、従ってスケープゴートは必要ではなかった。必死に保とうとする軽蔑も時間が緩やかに溶かしていった。
全世界を軽蔑することによって生きながらえようとするあの絶対的孤独を自我の確立と呼ぶこともできよう。欧米に比べて日本の子供は個人の確立がなされていないが故にいじめが深刻化しているとの議論もある。だけれども、個々人の自我なんて土壌にあわない概念をひっぱりだすよりも、もっと大切なのは成熟した共同体の作り方を学ぶことじゃないだろうか。(もちろんその過程で自我の確立はなされるんだろうけれど。こういう過程を経てきているからか、私は自我の確立というと、世界に対する己の距離感・疎外感として感じてしまう。その疎外感がそのまま世界に対する悪意となっていくような違和感を感じるのは私だけなんだろうか。軽蔑という孤独から、全世界を呪ったままの状態から、救ってもらえた私はラッキーだったのだ。)
スケープゴートを必要とするような未熟な社会集団ではない、成熟した集団のあり方がありうるのだということを教えること。教室中からあらゆるからかい、あらゆる悪口、あらゆるけんかを一掃しようと憲兵のように目を光らせるのではなく、ありうべき集団のあり方を身を持って学ばせること。連帯感、利害、笑い、自虐、同情、かばいだて、依存、外部に敵を作ること。色々な方法で集団を維持する方法を私達は知っている。・・・・いや、私達大人もまだ本当には知らないのかもしれない。だって本当にうまくいっている集団ってそんなにはないものね。だとしたらこれから学んでいかなきゃいけない。あるいは発明していかなきゃいけない。これは子供達の問題ではなくって、私達大人が未来に向けて解決していかなきゃいけない大きな課題なんだろうと思う。人間の可能性、集団の可能性ってそんなに捨てたもんじゃないって胸をはって教えられる大人になりたいと思う。
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