全国どこでもそういう傾向なのかもしれないが、スーパーの野菜売り場の片隅に、地元産野菜のコーナーが設けられるようになった。
「○○町XXさんのにんじん」といった形で、場合によっては作った人の顔写真までついて並んでいるから、虫食いの跡があろうと形が大小不ぞろいだろうと、ついついそちらに手が伸びる。
○○町はいつも外勤に出かける隣町であったり、あるいはまた、△△地区が私の住む地区であったり、畑の前で泥だらけのにんじんを持ち上げてポーズをとるおじいさんが毎朝通る曲がり角の家の人かもしれず、そう思って口に運ぶにんじんもトマトもきゅうりもえごまの葉も腹にずしんとくる旨さだ。
この土地の事をしっかり全て知っているわけではないけれど、それでも、畑々のわきを流れる用水路の水がどれだけ澄んでいるか、胸いっぱいに吸い込む風がどれだけおいしいか、そのくらいのことは知っているし、一方駅前に向って流れていく川の川べりにひっかかっている空き缶の多さも、ちょっとした山の空き地に掘られた大きな穴に毎日運びこまれるよく分からない廃棄物があることも知っている。
知った上でこの土地の土から作られるものを口にする、というのは、地に足の着いた行為なのではないかと思う。
どこか遠くで作られたものを食べて、排泄物をどこか遠くに捨てるという生活の無責任さについて考える。
工業も農業も漁業も土地土地に得意なやりかたで得意なものを、それぞれ手分けせねば今の生活は成り立たぬ。それは仕方のないことだ。仕方のないことではあるのだけれど、やっぱりそれは「仕方なく」でなければならぬ。グローバナントカとかいって、距離の隔たりを無限にゼロに近づけるのをよしとする思想は、効率をあげ単価を下げ生活を便利にするかもしれないが、私達から顔を奪うだろう。
土地には土地の神様がおり、土地と土地を隔てる距離にはそれなりの意味がある。アメリカのジョンソンさんが作ったジャガイモと△△地区の長谷川さんが作ったジャガイモでは、安全性その他の面が同じであっても、△△地区に住む私にとっては全く違う意味を担うはずである。
加えて私はこの土地のこの風景をとても愛していて、こぎれいに手入れされた小さな畑やかえるの声が一斉に響く青い田が、来年も再来年も同じようにこの美しい季節を迎えて欲しいと思う。
他処産の野菜に比べて、決して安いとはいえぬ地元産の野菜をあえて買うのは、この愛すべき風景に対するささやかな投資であるのかもしれない。


トマトと卵とショウガ、鶏ガラスープの雑炊旨いよ。 というbuumiさんのコメントにつられて作ってみました。確かにこれは旨い。あつあつで食べたけど、冷やしても旨いだろうな、これ。
トマトはきゅっと絞まっていてそれでいて甘くて、少し青い香りがして、煮るには少しもったいなかった。
後はゴーヤと豚肉をにんにくで炒めたの。たっぷり黒胡椒がうまい。