ほんの短い間ではあったが僕の家に執事がいたことがあった。
一見どこといって特徴のない、どこにでもいる執事だった。
白髪混じりの髪は少し薄くて、でもきっちりと七三分けに撫で付けられ、黒いスーツの折り目も正しく、几帳面そうな鼻にちょこんと乗せられためがねは縁なしで、たぶん遠近両用だったと思う。
その頃の僕は失業中であったうえに、学生時代に連れ添った妻はたった一人の娘を連れて出て行ったばかりで、そう、そのなんというか、簡単に言うと全てが面倒くさくて気に食わなくて、つまりはどうでもよくなっていたんだ。
僕が住んでいたのは六畳と四畳半、二部屋のぼろアパートで、右隣の部屋に住む学生の部屋からは夜通し麻雀の音が聞こえていたし、左隣に住んでいるらしい女性とは一度も顔をあわせたことがなかったけれど、時折薄い壁越しに男の怒鳴り声やそれでも妙にはしゃいだ女の嬌声が聞こえていたから、つまりはそういうことだったのだと思う。
男の一人暮らしに二部屋は広すぎて四畳半はすっかり物置になっていたのだけど、やってきた執事のために僕は一日がかりでその部屋を片付け、引越しの度に移動するばかりでもう何年も封をきっていないダンボールだとか年に数回の冠婚葬祭以外に履くこともない古びた革靴の箱だとかを六畳の僕の部屋に運びこんだもんだから、僕の部屋はまたたくまに学生時代のような狭苦しさになった。
穏やかなその風貌からは想像もつかなかったけれど、執事は実に優秀だった。
彼の履歴書には世界に冠たるイギリスの執事学校を主席で卒業し数々の名門貴族の屋敷で研鑽を積み、その間には数々の執事コンクールで栄誉ある賞を総なめにした経歴が綴られていたのだけど、そんなものがなかったとしても彼の素晴らしさはほんの数時間彼と一緒にいるだけで誰でも感じるところだった。
僕の六畳といったら万年床で、さらにやってきた執事のためにがらくたを運びこんだものだから、ずっとそこに暮らしている僕でさえ、あちこちに散らばったビールの空き缶やカップラーメンの殻を一度も蹴飛ばさずに端から端まで歩くことなんて到底不可能な有様だったのに、執事ときたらただの一度もラーメンの残り汁でその真っ白な靴下を汚したこともなければ、積み上げられた下着の下に埋もれた灰皿に足の小指をぶつけるなんてこともなかった。
かといって床の隙間を探して飛び飛び歩いているかというとそんなことは全くなくて、まるで宮殿の赤い絨毯の上を歩くように、右足左足が等間隔に八分の六拍子を刻みながら颯爽と、でもとても穏やかに出るものだから、僕は彼が歩いている様を見るだけでとても幸せな気持ちになれたものだ。
家の帳簿を管理してくれる彼の手前、僕は職を探しに出ぬわけにはいかなくなった。とはいえもとより働く気なんて全然なかったのだけれども。
僕は毎朝10時に執事に見送られてアパートを出、近所の公園やパチンコ屋で漫然と時間を潰し、18時ごろにアパートに戻った。
職が見つからぬとも見つかりそうだとも、僕は何も言わなかったし、執事もまた何も聞かなかった。
それでも彼は毎朝僕のビーサンを磨いて玄関に並べて僕を送り出し、僕が玄関の扉を開けるより早く扉を開けて僕を迎えこう言った。「お帰りなさいませ、ぼっちゃま」
なぜ執事が僕のことをぼっちゃまと呼ぶのか、僕にはよく分からなかった。一度聞いたことがあったが、執事はただ困ったように「ぼっちゃまはぼっちゃまですから」とだけ答えた。
執事の背は僕より15cmも高くて、さらに執事学校仕込みの姿勢のよさであったから、僕はいつも彼に見下ろされているように感じていたものだ。だけれど今思い出す執事のどのまなざしも僕の顔をそっと下からのぞき込むようであるのはなぜなのだろう。執事はいつも控えめな、しかし決して無表情でない穏やかさをもっていた。
そう、彼は万事について控えめであった。
僕のアパートの電話が鳴ることなどほとんどなかったが、それでもたまに、何かの勧誘やセールスの電話がかかることがあった。僕達を苛立たせるそういう電話の全てを、執事はほんの二言か三言、それもほとんど聞き取れないくらい静かなそして丁重な二言か三言で切ることができた。はたで聞いていても誰もその電話を不特定多数にかけているセールスの類だとは思わないだろうし、どちらかといえば間違い電話の相手を優しくいたわっているようなそんな印象さえうけただろう。
僕の部屋にかかる電話で執事が決してとらない電話があった。滅多にないことであったが、妻に連れられていった娘が母親の目を盗んで二度か三度、電話をよこしたことがあった。いつもであれば2コール鳴るか鳴らないのうちに執事の穏やかな応対が聞こえるのであるが、そのときに限って執事はなぜかいつも手の離せない仕事をしており、苛苛した僕が受話器を取ると(だって電話は僕の六畳に置いてあったから執事が自分の部屋から出てくるよりも僕が手を伸ばした方が断然早いのだ)、果たしてそれは必ず、娘からの電話であった。
執事がそれをどうして分かったのか、それは未だに分からない。受話器を置いた僕が「娘からだった」と言うと執事は仕事の手を休めず目だけ僕のほうを向けて、静かに「そうでございましたか」と答えただけだった。
彼がそんな風だったから僕らは結構うまくやっていた。六畳と四畳半、ふすま一枚をはさんで暮らしながら、僕が声を荒げたのはたった1回だけだった。
ある晩僕が水を飲もうとすると数少ないコップが全て流しの中で、使えるものがひとつもなかった。
その日思い立っていつも時間をつぶす公園ではなく職業斡旋所にまじめに赴き、自分の身の程知らずと世間の厳しさに打ちのめされて帰ってきたのをいつものように「お帰りなさいませ、ぼっちゃま」と律儀に迎えられた己の身の置き所もない情けなさ、水を飲みたくなったのも喉が渇いてというより焼け付くような焦燥感に喉元をかきむしってのことであったから、「執事ならコップくらい洗えよ」と声を荒げたのも無理からぬことであった。
ところが執事はいつにない頑固さで「執事はメイドではありませぬゆえ。」と動こうとしない。
「そんなことは分かっている。俺がいつお前に皿を洗えと言った。俺の六畳間を掃除しろと言った。コップじゃないか。コップ磨きは執事の仕事じゃないのか。」たぶんあのとき僕は泣いていた。訳の分からぬ苛立ちに身を裂かれるような痛みが五臓を駆け抜け僕は手に持ったコップを床にたたきつけた。
砕け散るかに思えたコップはしかし、にぶい音をたてただけで暗い台所を転げ、執事の足に当たって止まった。埃だらけのこの家に住みながら染みひとつない真っ白い靴下であった。
執事はゆっくりといつもの優雅さでかがみ、まるで捨て猫を拾い上げるように転がったコップをそっと拾うと僕を見上げた。その目にはほとんど悲しみといっていいほどの哀れみが浮かんでいた。
「ぼっちゃま。執事が磨くのは銀の食器でございます。」
僕は、僕は、ああ、今でもあの時のことを思うと僕は息が詰まるようだよ。あれほどの怒り、あれほどの悲しみは、妻が出て行った時ですら感じたことはなかった。
立ちすくむ僕の頭の先から手の先から血の気がさっと引いて、それから真っ赤な炎が怒涛のように全身を駆け巡った。僕は頭をかきむしり叫び声をあげた。左隣の女が壁をどん、と叩いたがそんなことは構わなかった。腸を吐き出すようなわめき声をあげ体中をかきむしりながら僕は冷たい台所の床をころげた。執事はじっと黙って僕のそばに立ち尽くしていた。
翌日から僕は職探しに奔走した。職を探すようになって僕には何の技術も資格もないことを知った。社会的に僕は無であった。
執事の前では僕は何も変わらないはずであった。これまでのように朝10時に執事に送られてアパートを出、18時頃執事に扉をあけてもらってアパートに戻った。変わったことといえば、それまで履いていたビーサンの代わりに古びた革靴を玄関に出してもらうように頼んだことだけだった。
執事がいなくなった日の事を思うと、今でも僕は胸がしめつけられる。彼はアパートにやってきた時と同じように、ある日突然ふらりといなくなった。
その日はやっと探し当てた職の初めての給料日だった。僕は初めてもらった給料で小さな銀の燭台を買った。おもちゃのような小さなものではあったが、確かに銀には違いなかった。僕はそれを胸に抱えて執事の困ったような穏やかな笑顔を思い描いてアパートへむかった。
今から思えばアパートの階段を上りきる頃には、たぶんもう、僕はそのことに気付いていたんだ。アパートの扉はもう僕が開ける前に開いたりはしない、「お帰りなさいませ、ぼっちゃま」そう言って僕を迎える控えめな笑顔はもうそこにはいないんだってこと。
果たしてやっぱりそのとおりだった。ただ僕の予想を裏切っていたのは、彼のいた四畳半はもちろん、ぐちゃぐちゃだった僕の六畳もきっちりと片付けられていたことだった。そして食器棚にはぴかぴかに磨かれたガラスのコップが寸分のくるいなく並べられていた。まるで彼の鼻みたいに几帳面にね。
銀の燭台は今でも僕の手元にある。
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ここで疑問。
この執事は
水道料金の支払いとかはやってくれるのでしょうか。
・・・切実です。
【トラバでボケましょう2006 第7回お題】
『 あなたのお家の、自慢のメイド(執事)って? 』
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