心ならずも台所に立つことが好きになってしまったが、料理をするつもりは毛頭ない。
ましてや 手料理などと呼ばれるものとは 全く無縁である。
これは泥遊びだ。
あばずれには あばずれの ちっぽけではあるけれど やっぱり美学がる。
あたしはあばずれだから
誰かに手料理を食わせるなんて 思いもよらないことだし
それは あってはならぬことだと 思っている。
その行為を日常として やすやすとこなしている多くの人にとって
そんな区分けはなんの意味も持たないのだと、そんなことは分かっている。
だが私にとっては やはり
台所に立つということ おいしいと思うものを作るということは
そんないい訳をしなければならぬほどの 背徳であるのだ。
カップ麺を食う日々に意味を見出す人生があるのだということ
そうすることでしか懺悔できない日々があるということ
あたしはそのことを決して忘れたくはないし
”その側の” 人生を歩んでいたいんだ。
かの人は死に あたしは生きている。
その人の心臓をもみながら もうだめだな
そう思ったあたしがいる。
かの人は死に あたしは生きて ご飯を食べている。
外科医の主食がカップ麺であるのは 多忙であるからではなく
痛みからでは あるまいか。
かの人は死に 自分は生きているということ。
そのことが 我々に 現在の職場環境を強い またカップ麺の日々を強いているのではあるまいか。
だから これは 料理ではない。
気まぐれの 遊びだ。
そうでなくては 私が殺してきた幾多の人々に
どうやって申し開きができようか。
その一方で
生きることの喜びを知らない者が
死ぬことの痛みに 共感できようか と
そう思うあたしがいる。
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と、書いたままぼつにしていた文を見つけた。
たった半年前のことであるのに、こんなことを書いていた日々もあったのだと、唖然とする。
街頭で募金を募る人々の前を足早に通り過ぎるように、あるいはまた偶然つけたTVに遠い国の戦争が映し出され思わず手にしたワイングラスを置くように、それをする自分を咎めつつ包丁を握ったことがあったのだ。
これを書いた日の冷たい台所の床、凍みるような水道の水、爪の間に入り込んだ魚の血の匂いは、まざまざと思い浮かべることができるのに、このときの身もだえするような羞恥心はもう思い出せない。
いや、思い出せぬのではない。羞恥心なら今もある。ただ羞恥心にとって変わる別の言い訳をみつけただけのことだ。
人間なんて勝手なものだ。理由などいくらでも見つかるし、それは思い出したいときに思い出したいように作れるものだ。
台所に立たねば越せぬほど辛い日々でもあるまいに、今日の疲労を、明日の手術を言い訳に、私は台所に立っている。
台所に立とうが立つまいが、羞恥心があろうがなかろうが、日々の仕事の量も質も変わらぬ。
にもかかわらず、いずれにせよ同じこと、とはどうしても思えぬとは、私の「自分好き」にもいささか呆れる。無我の境は遠い、遠い。