創造性とは何かについて、歴史的な作家と駄文を生み出し続ける凡人との違いを前提としたうえで精神疾患とのかかわりを元に考察している一節を読んでいて、なんだか疲れてしまった。
最後までこの本を読んだわけではないし、創造性についての部分はこの本の中心ではないので、批判を書く気はないのだけど、代わりに「では私はなぜ書くのか」について考えた。
なぜ書くのか・・・何を目的に、何を求めて、何を示したくて、私は書くのか。
書くことによって、何をしたいのか。
その答えは図らずも、私の文が創造的でないことの言い訳と表裏をなしてしまうのだが、凡人の遠吠えと誹られることを承知の上であえて言えば、私にとって書くこととはすなわち「再現する」ことである。
私が生み出す言葉の全て、いや人間が生み出す言葉の全ては、誰かと「分かり合う」ために用いられるのである限り、どれもいつか言われたこと、言葉にされたもの、言葉にされ得たものであるのではないか。その意味で「創造性」とはいかなる意味をもちうるのか。創造的であることと突拍子もないこととはどう違うのか。
「百万の猿に百万のコンピューターを叩かせればいつか名作が生まれるだろうという予感はインターネットのお陰で裏切られた」という皮肉は、むしろ「百万のニンゲンが百万のコンピューターを叩いたほうが、百万の猿が百万のコンピューターを叩いた場合よりも創造的な文が生まれる可能性は低い」とするべきだろう。なぜなら私達は意味に縛られた存在なのだから。創作が芸術的であるのか否か、あるいは人類にとって意味を成すものであるのか否かは、価値評価が常に第三者によってなされるものであり、その事物そのものの内面におのずと宿るものでない以上「これは創造的な作品である、なぜなら芸術的であるからだ」といった堂々巡りを生み出すだけだ。
「創造性」の前提なしに、作文(のみならず全ての創作活動を)を芸術として意味付けることが可能であるのは、いったいいかなる意味によるのか。
私の書く全てのこと、いや知覚の全て、体験の全て、が否応なしにデジャヴの霧をまとっている。この文も、昨日読んだあの文もどれも、いつか誰かが言ったことにすぎないし、言葉にしなくともかつて誰かが考えたことである。いや、誰もが、というべきであるのかもしれない。言表レベルで表現されていなくても、意識の底に封じ込めた過去のつぶやき、頭の中をかすめただけで次々と忘れ去られていく思いつきの数々、私の知らない私の膨大な記憶の倉庫に仕舞いこまれた数知れぬ思考の断片が、私にこの文を書かせ、あなたにこの文の理解を可能にさせている。
私達は、初めから「それを知っている」。知っているそれを「思い出す」ことによって私達は改めてそれを知る。
だがこの「思い出し」にはちょっとしたこつが必要だ。記憶の引き出しはとても繊細にできているから乱暴なやりかたでそれを引き出そうとしたり、「正しくない」やりかたでそれに触ろうとすると、瞬く間にそれは粉々になって二度と手の届かない記憶の底に沈んでしまうかあるいは陳腐なまがいものに変わってしまい、もう元の姿がなんであったのか誰にも分からぬようになってきらきらに飾り立てられたちゃちな陳列棚に並べるほか術がなくなってしまうのだ。
だから「文を書くこと」つまりこの「思い出し」にかかわる作業というのはとても神聖なものだし、だからこそ私達をひきつけて止まないのだと思う。
例えば遠い昔に記憶の底にしまいこんだ夕日の赤さとそれを見つめた幼い魂の震えは、赤い夕日を再現することによっては決して引き出せないし、例えば私達は舌に乗せた瞬間溶けてしまう雪の甘さを思い出すのに、口いっぱいに雪を含むだろうか――――否、例えば老いた母の背中が脳裏をかすっただけで、雪の甘さを思い出すのに十分であったりもするのだ。
文を書くことを建設に例えたのは誰であったか。相手の心の中に蓄えられた道具を用い相手の心の中に建物を築くこと、文を書くのはそれに似ている。材料は常に相手の記憶の倉庫にある。
だから文を書くというのは一見極めて間接的な手法であるようでいて、実際は極めて直接的な行為であるのだと思う。読者の身体の中心に手を突っ込んでまさぐり「読者の」記憶の断片を拾い出し「読者の」中に自動映像装置を作り出す。自動映像装置はそこで読者の知らない読者自身を「引きずり出す」。
ほとんど強姦に近いほどの暴力行為を思わせるこの「書く」という行為は一見間接的に見えれば見えるほどより強い力を持ちうるのだし、だからこそ政治的演説よりも一片の小説が世論を動かすということがありうるのだろう。
だから私にとって書くことの意味は「創造」ではなく「再現」であり、書かれたものの評価はその創造性ではなく「再現力」によってなされると思っている。かつて知っていたあのこと、記憶の底に封じ込めたあの感情を「引き出す」「思い出させる」という意味での「再現」。私の文は私の中ではなく、むしろ宛名たる相手の中にあらかじめ存在している。
例えば美しさを描きたいとして、美しさを創造するなどおこがましいことだ。洞窟の住人を言うまでもなく私達は美しさというものを知っているし、私達をとりまくこの世界、あるいは私達の心の中に住まう桃源郷、あるいはそれ以上に美しいもの・・・いずれにせよ美はすでにそこに(あるいはどこかに)ある。その意味で美を追求する全ての芸術は「再現」ではないかと思う。模倣ではない、再現。
美しさだけではない。悲しみも苦しみも、私たちは何も知らないのに、全てをすでに知っている。
いつか見たあの記憶、私の知らない私の記憶、それがこんなにも魂を震わせるから、私は今日も文を書かずにいられない。私の中で忘れ去られた「それ」が、深い井戸の底眠りに付くことを拒んで静かに振動し続けている。記憶の水面は、だからいつも何かの予感に不穏に波立ち、私は息苦しさに喉元をかきむしりながら、引き出しを開ける呪文を探している。記憶の泥炭をかき回して、忘れてしまった「あれ」を探している。だが指先に触れるそれは瞬く間にまがいものに変わり、あるいは粉々に砕け散って深い泥の中を沈んでいき、私はもう二度とそこにたどり着けない。拾っては壊し拾っては壊し、だから私は文を書き続ける。私の中で震える「それ」を探して。
だから私は「創造的」でない文を好む。誰もが見知った文を―――そう、真の意味で見知った文を書きたいと願う。