恋に落ちるには、ほんの小さなきっかけがあればいい。
それは飼育しているアロワナの餌金を買いにふらりと寄った店の生餌コーナーだった。
不恰好に羽の曲がったコオロギが飛び回るプラケースとミルワームがうごめくおが屑の詰まったダンボール、薄暗い店の隅に所狭しと投げ出された埃を被った流木、それらを蹴飛ばさないように慎重にするりと身をよじらせて、餌にされる金魚やめだかの飼われる青いプラケースの前まで入って、そこから少し離れた台の下に置かれた水槽に、女の目は釘付けになった。
うきがえるだった。
小さな水槽の表面を所狭しと埋め尽くす灰色の小さな蛙は、まるで死んでいるように身動きもせず、だらんと前に投げ出された前足は目的もなく宙を掴み、白く濁った小さな瞳は何も見ていない。
つるりとした背中から白い腹へと移行するあたりの皮膚は、腹の中身を思わせるほどぷっくりと張り出し、その表面はぶつぶつと粟立っていて、粘膜をむき出しにした生物であることを知らしめている。
まるであたしみたいだ。突拍子もなく、女はそう、思う。
なんの根拠もないその思いつきに魅入られて、女はその場を、動けない。
「御入用ですか。うきがえる。いくつ取りましょうか。」
薄暗い店の隅で水槽の前に座り込んでうきがえるに見入る女に、背後から店員が声をかけた。
「あの・・・これ、繁殖できますか。」
もとよりそんなつもりは毛頭なかったのだが、つい口をついて出たその言葉を他人のもののように聞きながら、家の水槽の表面をびっしりと埋め尽くす灰色の手足が頭をかすめ、ぞくぞくする快感が背中を走るのを感じる。
「うーん、聞いたことないですねえ。オスメスもちょっと分らないなあ。それにお客さん、この子たち生餌しか食べないから、餌やりちょっと大変ですよ。」
家中を埋め尽くす灰色の手足の映像からいきなり現実に引き戻された女の表情を見て、どんな誤解をしたのだろうか。店員は気の毒そうに笑って言葉を継いだ。
「それよりお客さん、イモリ、飼いませんか。同じ両生類ですし。かわいいですよ。飼育もずっと簡単ですし。何でも食べますから。」
店員の見当違いの慰めが可笑しくて女はそこで初めて顔を上げて、朴訥そうな店員を見た。
「繁殖も、できます?」
店員はほっとしたように勢いづいて言葉を継ぐ。
「ええ、ええ、できます。簡単ですよ。ちゃんと秋に食べさせて冬に温度を下げてやれば、春には赤ちゃんが見られるはずです。オスの求愛もいいんですよ。ぜひ、見て欲しいな。長生きですしね。僕も飼っていますけど、10年くらいになりますよ。」
思いつきで生き物を購入するなんてあるはずもなかった。あるはずもないことであったが、その日だけはなぜか、違った。
「ペアで、いただけますか。」
「わかりました。来年には繁殖しそうな個体をみましょうか。」
店員はそう言うと慣れた手つきで水槽の中からイモリを掴みだし、ひっくり返して腹を調べはじめた。
店員の、長く白い指の中で、黒い生き物がぴちゃぴちゃと身をよじり、そのたびに赤い尾がぬらりと光った。店員の手は体毛がなくつるりとしていて、まるで両生類の皮膚のようであった。
冷たそうな、美しい、手だと思った。
注意深く選ばれた二匹をプラケースにそっと流しいれ、足元の金魚ケースからカボンバの一枝をちぎって放り込むとぱちりとふたをする。それから店員の手はアロワナのように女の体にふわっと近づき、通り過ぎ・・・そして何事もなかったかのように女の肘から下げられた買い物かごにイモリを置いた。
「どうぞ、ありがとうございます。」
店員の体臭がそっと香った。
店員の言ったとおり、二匹のイモリは何でも食べた。慣れてくると、女の手から餌を食べるようになった。とはいえ冷凍赤虫の固まりを女の指から食いちぎろうとするそのときに、自分達の主人の存在をこれっぽっちも知っているようではなかったが。
女がその店に再び行ったのは、2週間ほどしてからであった。
店員は水を湛えた大きな水槽の前で、夫婦連れの客に魚の説明をしていた。夫婦はグッピーを購入するらしく、華やかに舞う無数の尾びれをにこやかに笑いながら指差していた。
女はなぜか無性に悔しくなり、店員の背後からぶっきら棒に声をかけた。
「糸ミミズください。」
「あ、はい。いらっしゃませ。」
店員は夫婦連れに軽く会釈をすると、長いピンセットをとり、糸ミミズのプラケースに向かった。気づかないのだろうか。気づかなければ気づかないでそれでいい。そういうものだ。
「ひとカップでよろしいですか。」
「ええ。」
糸ミミズをひとカップという単位で購入するものだとは知らなかった。目の前にたまたまあったものを口にしただけなのだから。店員は長い指でピンセットを器用に操り、そうめんを掬う様に糸ミミズをカップに入れた。途中、水の中に再び落ちた糸ミミズが、絡み合いながら固まりを作って、ゆっくりと沈んでいくのが見えた。
思わず、我を忘れた。
「あの」
店員が顔を上げて女を見る。
「あの・・・イモリ、イモリ、元気です。」
店員の顔に親しげな、とろけるような笑みが広がったのを、女はうっとりと見た。
「そうですか。何でも、食べるでしょう。糸ミミズも、食べますか。」
「・・ええ、ええ。好きなんです。うちの子。」
うそを、ついた。
糸ミミズを食べるかどうかなんて、知らなかった。
でも帰り道は、幸せだった。いつか店員が何かの拍子に自分のイモリを見に来ることがあるのなら糸ミミズを持ってくるのだろうか、その時までに彼らに糸ミミズの味を覚えさせなければならない、と思った。
女のイモリは糸ミミズをあまり好まなかった。
初めの数口を飲み込んだだけで、あとは散らかして遊ぶだけであった。
仕方なく、ツメガエルの水槽に放り込んでみた。
ツメガエルは底に沈んだ糸ミミズを掻き込むようにしてむさぼり食った。
ツメガエルの腹が、見る間にぷっくりと膨れていく。
女は瞬間、殺意にも似た憎しみをツメガエルに覚え、水槽の中に手を突っ込むと群がるそれらを払い、糸ミミズを掬いだした。
たまたま空いている水槽があったのは幸いであった。
余っていた砂を敷き、エアレーションを放り込み、ツメガエルに食われずに済んだ彼らをそっと放した。
糸ミミズは絡み合いながら、ゆっくりと水槽の底に沈んでいった。
無数のオレンジ色の糸が絡み合いながら中心を目指して造る球形は炎を上げる太陽のようであり、底砂に半身を埋めて半身を水中にゆらす様は、大地に生える繊毛のようであった。
美しい、と思った。
店に通う口実はできた。
「糸ミミズ、好きなんですね。」
「ええ、大好き、みたいです。」
美しくて、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、女は答える。
糸ミミズを注意深くつまみあげる店員の手は、今日も、白い。
水槽、バケツ、洗面器、どんぶり、そして風呂桶。
部屋中に置かれた水の満ちたそこここで、エアレーションが低い響きをたてる。
中には無数の太陽が、燃えている。
闇に響く音の中で、女は店員の手を、うっとりと夢想する。

一応 創作にしときます。
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