この圧倒的な非対称に驚愕する。
哀れな生贄の首を アラーの神に捧げる行為は
捕虜の性器をあざ笑う行為と 対称ではない。
米軍兵のあっけらかんとした無邪気さを見よ。
上官命令でしたと平気でのたまう想像力の欠如した非人間性を見よ。
米軍兵にとって 捕虜の性器は人間のそれではなく
自らの貧困な欲望を投影させる悪ふざけの道具にすぎないのだから
イラク人など 今日は100人 明日は200人と まとめて処理つもりの
蟻なのだから
そのうちの10人を 裸にして積み上げたところで 何が悪かろうか、 というわけか。
米軍では首を落とすなんて面倒な真似はしない。
イラク人の首など落とす価値もないからだ。
イラク人を処理したかったら 毒ガスでも射殺でも 簡単な方法はいくらでもある。
この場合 対象は 人間ではなく ものだ。
殺されるのではなく 処理される命。
憎しみからではなく 傲慢さによって 処理される命。
吐き気をもようさせるような アウシュビッツの冷酷さが ここにある。
一方で 血吹雪をあげて切り落とされる 生贄の首は 重く
人間を殺すことの快感と 政治的宗教的意味を担うことが許されている。
だからこそ あの映像は
爆撃で死んだ50人のイラク人の映像よりも
恐怖と憎悪を生み出すことができるのだ。
だから アメリカ人の首をいくつ切り落としても 報復にはならない。
はじめから 圧倒的な非対称があるのだから。
相手の命に対する感覚が まるで違うのだから。
だが 全く違うこの二つの行為がもたらすのは 同じ 憎悪の連鎖だ。
まるで 何かに操られているかのように 憎悪の連鎖が 広がっていくのが見える。
私たちを操り 来るべき未来に向け 押し流しているのは 一体何なのか。
たぶん日本人の私は 両方の行為にそれぞれより少しだけ 近い位置にいる。
それぞれの行為の意味を 考えることができる。
だから 唾棄すべきものとして 目をつぶってやり過ごすのではなく
恐怖や嫌悪を排除して これらの出来事を 直視したいと思う。