以前書いたもの を仕上げました。
長いんですけど読んでいただけるとうれしいです。
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一体誰がはじめた実験だったのだろうか。
今はもう忘れ去られた研究棟の地下2階に、その人はいた。
いや、その人はという表現は語弊があるのかもしれない。
正確には、それは、と呼ぶべきなのだろう。
だが私にとってはやはり、その人、としか言いようがないのだ。
その人は暗い研究室に置かれた30㎝ほどの立方体の硝子の箱の中にあった。
彼女を囲む硝子はすでにそこを過ぎていった幾多の時間によってすり硝子のように曇っており、その中を満たす白く濁った氷がさらに幾重にも彼女を包み、彼女の存在を時間の外に固定していた。
厚い氷の中で、しかしかつてこの世に五体を留めていた時のように、彼女は静かに生き続けていた。
その人がなぜそのような姿となって生き続けているのか、生き続けなければならなかったのか、伝えられた神話以外に真実など誰も知らない。
―――彼女は、肉体の殆どを失っていた。
唯一彼女に残されていたのは、脈打つ心臓だけであった。
それにつながる大静脈や肺動静脈は丁寧に結紮切離されていたが、大動脈だけはなぜか 根元からちぎられていた。
拍出すべき血液はとうに失われ、彼女が脈打とうともちぎられた大動脈から送り出される何ものもありはしなかったが、それでも彼女は、ゆっくりと脈打ち続けていた。
忘れ去られた地下室で、その人はひとり、脈打っていた。
彼女は死を、望んでいたのだろうか。
今となってはそれすら、私にはわからない。
ただ私が知っていたのは、我々生者の想像を絶する長い時を彼女は氷に埋められひとり生かされてきた、ということだけだった。
その地下室の鍵を私に渡したのは、老いた研究者であった。
約束を守ることを条件にその研究室の全権を譲ろう、そう言い出したのだった。
古ぼけた研究室に立ち入る権利なぞ、なんの価値があろうか。
そう笑い飛ばした私の目をその老人は土色の瞳で覗き込み、必ずお前はあそこに入るだろう、そう預言した。
どんな理由が生じたのかはとうに忘れたが、結局のところ私はその地下室の鍵を受けとった。
その人を包む厚い氷を何があろうとも溶かさぬこと、彼女をその眠りから覚まさぬこと、 約束はそれだけであった。
彼女が見ている夢を破ってはならぬ。
老研究者は言った。
お前は生涯をかけて彼女の眠りを護らねばならぬ。お前自身の為にだ。
脅されなくてもその心配はないと思われた。
ちぎり取られた氷漬けの心臓が生きる地下室に誰がわざわざ足を向けようか。
訪れることがなければその眠りを破ることもあるまい。
そう言って、私は笑った。
なぜか老人は、笑わなかった。
手に入れれば使ってみたくなるものだ。
古ぼけたその鍵を持って私が地下室に向かったのは、それからしばらくしてのことだった。
錆付いた鍵はなかなか回らず、私は凍えた手に何度も息を吹きかけねばならなかった。
何度目かの挑戦で扉がようやく開いたとき、私は迂闊にもその中で生き続けているものについて失念していたのだ。
付く筈もないと思われた蛍光灯がぶーんと鈍い音をたててその部屋を照らし出し、私は無防備な安堵感とともに心の準備を逸したまま、彼女と向かい合うことになった。
その人は・・・彼女は美しかった。
無残な大動脈の断端、静脈を縛る黄色く変色した結紮糸、失血により白く透明に透ける心房、にもかかわらず彼女の美しさは私を圧倒した。
いかなる時の流れも超越し生きながらに化石となった古代の女神を前に、身を切るような冷たい地下室の湿った空気の中で、錆臭い両手も蜘蛛の巣を被った頭も忘れ私は立ち尽くした。
彼女の美しさをどのように写し取るべきだろうか。
それは美を言祝ぎ崇めるどんな言葉をも超越していた。
表面を網の目のように走る動静脈は光沢をもってつやつやと輝き、螺旋を描いて収縮する筋肉は期待される沈黙を裏切り続けるその規則的な運動にも関わらず大理石のように冷たく、それが生きた細胞によって構築されているのだという安易な認識を頑なに拒絶しているかのようであった。
部屋を白く照らす古びた蛍光灯が思い出したように時折ぱちぱちと瞬きをし、立ち尽くす私を現に呼び戻してくれるのでなければ、私の心は彼女に魅入られたままその部屋で凍りついていたかもしれない。
人目をはばかり町が寝静まるのを待って私は彼女のもとへと通いつめた。
凍れる地下室で白い息を吐きながら彼女を包む厚い氷をかき抱き、彼女が一人過ごした幾千年を想った。
彼女に触れることすらできないということが、この恋を一層狂おしいものにした。
時は瞬く間に過ぎていった。
私と彼女を隔てるものが彼女を包む氷だけでなく、互いの住まう時の流れの差異であることにいつしか気づき、私は絶望で胸をかきむしった。
どこまでいっても彼女には手が届かず、涙にくれた熱い接吻を押し当てたまま朝を迎える その場所の氷がわずかに溶けなだらかな凹みを作った事だけが、唯一彼女に残せた私の痕跡であった。
彼女と過ごす夜を待って夢うつつに時を流す私にとって、日没の始めの一光りが世界の始まりであった。
赤く赤く赤い夕日は、彼女が失った血を思わせた。
そしてまた同時にそれはどこか遠くで流されている血を思わせた。
世界には相変わらず憎しみが溢れ、恐怖と諦めが雲のように世界を包んでいた。
バベルの塔は血煙をあげて崩れ落ち、周到に準備された呪いによって人々は手や足を失い、あるいは粉々の肉片と化し、血の染み込む大地を這いずり廻っていた。
人々は苦しむためだけに生き、生きていることを知るために苦しみを欲しているかのようであった。
愚かな人間のやりとりを私はガラスの向こうの出来事のように呆然と眺めていた。
私にとって厚い氷の向こうに閉じ込められた彼女よりも即迫した現実などどこにもなかった。
私の流す涙は、すべて彼女の為であった。
すべての感情が、彼女の為にのみあった。
その老研究者がわたしを訪れたのは、いつものように世界が燃えるある夕暮れであった。
無表情に彼を招き入れた私に、老人は問うた。
分からんのか。
世界が崩れ始めているのが。
世界を支える厚い氷が溶け始めているのじゃ。
老人の土色の瞳は夕日を映して赤く燃えていた。
お前がそうするであろうとわしが読めなかったとは言わん。
にもかかわらずお前に鍵を託したのは、わしもそれを望んでいたからなのか。
独り言のように呟き椅子に崩れこむと、しばしの沈黙の後ため息とともに彼は語り始めた。
我々の存在がどこにあるのか、お前はまだ気づかんのか。
彼女が何のために夢を見続けているのか、夢見を強いられているのか、知らんとは言わせん。
彼女は夢見の巫女の生き残りじゃ。生き残り、という言い方があっていればだがな。
それがどのくらい昔であるのか誰も知りはせぬし、知る術とて無い。
世界は夢見の巫女のものであった。
彼女達は気まぐれに眠り、我々を夢見た。覚めぬ悪夢は無く、消えぬ憎しみもまた無かった。我々の喜びも哀しみも、そして我々の存在もまた巫女達の気まぐれによって束の間生を受けるにすぎなかったのじゃ。
彼女たちの眠りと覚醒の繰り返しに儚い生を営んでいた我々の祖先がある時、彼女たちの一人を永遠の眠りにつけることを思いついた。
どうやってそんなことが可能であったのは知らん。だが事は成った。
最も若い巫女の一人がその生贄となった。彼らは、保存のきかぬ部分を廃棄し、残されたそれを厚い氷に包み、彼女を永遠の眠りにつけたのじゃ。
彼女の覚醒による消滅から免れることになった我々の世界は強大化し、いつしか自分たちがたった一人の女性の夢の中の住人であることを忘れた。我々は我々の存在を確かなものと思い込み、未来は永劫に続くものと我々のものであると、愚かにも思い込んだのじゃ。
自らの存在を疑わぬ愚かな知性のもたらした世界がどのようなものになったのか、あとはお前も知るとおりじゃ。
愚かな・・・愚かなことじゃ。取り返しのつかぬ・・・愚かなことじゃ。
呟くように語り終えた老人は土色の瞳を静かに見開き、立ち上がった私を凝視した。
氷を溶かし、彼女の夢を破ることが何を意味するか、これで分かったろう。
この世界も、わしもお前も、彼女の夢の中の出来事にすぎんのじゃ。
すべては儚い夢にすぎん。
お前が氷を溶かしあの人を永遠の悪夢から救ったところで、どうにもならん。
切り取られた一臓器にすぎない彼女があの氷から出ることはすなわち、彼女の腐敗を、彼女の死を意味するのだから。
そんな話しを今更聞いて、一体どうしろというのだろう。
私を呼び寄せたのは、彼女だ。
例えそれが彼女の死を意味しようとも、例えそれがこの世界の消滅を意味しようとも、彼女を幾千年の悪夢から開放してやることだけが、私に唯一できることなのだ。
小さなライターを握り締め、私は彼女の待つ地下室へと吸い寄せられるように歩き始めた。
老人は、目を閉じたままぐったりと椅子に深くもたれ、私を追うことを、しなかった。
変わらず凍りついた地下室で、その人は私を待っていた。
白い蛍光灯がぶーんと鈍いうなり声をたてて彼女を照らし出すと、私はいつもそうするように彼女を包む厚い氷の前に跪き、氷の上から彼女にそっと口づけをした。
白く濁った氷は厚く、私の接吻はどれほど熱い想いを込めようとも、彼女には届かない。
彼女は私の想いなど知りもせぬ様に、ゆっくりと脈打っていた。
私は手にした新聞紙を彼女の回りに寝床の様に敷きつめた。
幾千年を横になることも許されず脈打ち続けた彼女に最後にしてやれることが、黄ばんだ新聞紙を敷いてやることだけであることを思い、私は少し笑った。
それはこの部屋に幾千年ぶりに響いた、最初で最後の笑い声であるかもしれなかった。
彼女を起こす気遣いはもう不要であった。
私はもう一度、声を出して笑った。
自分の体の底にまだ笑う力が残っていることに私は少し驚いていた。
何も可笑しくは無かったが、うめき声と泣き声の充ち溢れるこの世界の最期に、彼女の悪夢の最後に、ひとつくらい笑い声があってもいいのではないかと、ふと思った。
だが、搾り出した一片の声を最後に、声は枯れ果てた。
もう一度笑おうと顔を歪めたが、こみ上げてくるものは別のものであった。
私は戸惑い、彼女を見た。
規則的に螺旋を描いて収縮する筋肉は大理石のように冷たく、だがその律動に合わせ僅かに前後に揺れる、何も拍出せぬ白い動脈は、まるで喘いでいるようであった。
それは息苦しく彼女を閉じ込める白く濁った氷故の喘ぎであるようにも見え、あるいはまた覚めぬ悪夢にうなされているようにも見えた。
貴女は幾千年を独り、そうやって悪夢に喘いできたのだ。
なぜ。
なぜ、貴女は。
なぜ貴女は、その拍動を自ら止めようとしないのだ。
なぜ貴女は、私にそれをさせようとする。
貴女の望みは、どこにあるのだ。
なぜ貴女は生き続ける。
苦しみに喘ぎつつも、なぜ悪夢を見続けることを止めないのだ。
そっと指先で彼女を包む氷を撫でる。
溶け出した氷がゆっくりとその後を伝い落ちた。
・・・・涙のように。
彼女を閉じ込める氷がじっとりと汗ばんでいることに、今更のように私は気づいた。
溶け出しているのだ、世界を支える氷が。
私は改めて彼女を見た。
彼女の生み出す律動はこれまでに無いほど速く激しく、そのために氷はぎしぎしと音を立てるかのようであった。
大理石のような彼女の肌にはうっすらと汗が浮かび、前後に揺れる動脈はますますその激しさを増し、彼女の喘ぎ声すら聞こえるようであった。
氷が、トケル。
鋭い何かが、私の中を走りぬけた。
彼女は自らを殺そうとしている。
自分を生かしてきた氷を溶かすことで、世界諸共滅びようとしているのだ。
なぜ、今更。
幾千年の悪夢を受容してきた後、なぜ今更。
なぜ今更、死に急ごうとする。
私にそれをさせまいとしてなのか。
私にそれをさせまいと、自らに課した掟を破り、傲慢なこの世界を、自分を苦しめ続けたこの世界を、自らの手で葬り去ろうとしているのか。
私は無我夢中で彼女に縋り付き、今しも溶けようとする氷ごと彼女をかき抱いた。
どうしたらいい。
どうしたら彼女を、止められる。
つい先ほどまで硬く心に抱いていた決意など忘れ去り、私は我を忘れて叫んでいた。
イケナイ。
死んでしまう。
沸騰する私の心は燃えるようで、彼女をきつく抱きとめようとすればするほど彼女は溶けていく。
どうしたら死に逝く貴女を止められるのだ。
どうしたら。
頼む。・・・・逝かないでくれ。頼む。
・・・・死なないでくれ。
燃える私の指先は触れるそばから彼女を包む氷をはらはらと溶かし、もはや私は彼女に近づくことさえ許されず、ただ狂ったように叫び続けるほか術は無かった。
彼女から溶け出した氷は赤い水となって部屋全体に広がり、まるでそれはバラを散りばめて作られた赤い絨毯のようであり、あるいはそれはまた大地を汚し続けてきた我々の血のようでもあった。
部屋に広がる赤の真ん中で彼女は独り喘ぎ、崩れていった。
叫び続ける私と彼女は無限の距離で隔てられ、私は身を焦がす絶望に駆られて彼女に手を伸ばした。
私の指が彼女に届こうとしたその時、彼女を支える最後の薄い氷が、しゃりんと、落ちた。
・・・・どのくらいの時が経ったのだろうか。
ぶーんと鈍いうなり声を上げて部屋を白く照らす古びた蛍光灯がぱちぱちと瞬きをし、我に返った私は部屋を満たす冷気に思わず身震いをして身を起こした。
彼女は・・・・生きていた。
白く濁った厚い氷に包まれ、彼女はゆっくりと脈打っていた。
表面を網の目のように走る動静脈は光沢をもってつやつやと輝き、螺旋を描いて収縮する筋肉は大理石のように冷たく、それが生きた細胞によって構築されているのだという安易な認識を頑なに拒絶しているかのようであった。
厚い氷の中で、しかしかつてこの世に五体を留めていた時のように、彼女は静かに生き続けていた。
私は彼女の前に跪き、彼女を包む氷にそっと口づけをした。
霜を纏ったそれは固く凍てついており、私の行為はそこになんの痕跡も残さなかった。
私は立ち上がった。
私を冷気から守るようにそっと掛けられていた黄ばんだ新聞紙がはらりと落ちた。
いつの間に?そう問うことなど無意味であった。
錆付いた扉のところで、私はもう一度振り返り、蛍光灯のスイッチを落とした。
ぶーんという鈍いうなり声が消えた。
燃えるように赤い朝焼けであった。
よろけるように歩き出した私を迎える町は、昇りゆく太陽に照らされ赤く赤く煙っていた。
―――町が燃えている。
私は呟いた。
貴女の悪夢は続いている。
こうしている今もここかしこで血が流され、憎しみの連鎖が大地を汚し、地に埋められた呪いが人々を焼いている。懲りずに建てられる第二第三のバベルは血煙とともに幾度となく崩れ落ちるだろう。
貴女は喘ぎながらも拍動を止めず、我々の世界はそうして明日を迎えるのだ。
悪夢そのものであるような我々のこの世界、この世界を支えて貴女は氷に閉ざされた絶対的孤独の中で独り、嗚咽しているのだろうか。
それとも、夢の中の住人に過ぎぬ我々がいつか、憎しみの連鎖を断ち切り大地に染み込んだ血を洗い流し、眠りにつく幼子の頬を優しく撫でる静かな雨を降らせるその時を、夢見ているのだろうか。