「戦争」という記号
記号がものの不在を前提としており また
私たちが 記号を介さずには世界を認識できない以上
現実はいつだってよそよそしく 遠くにあり
わたしたちは
記号のつぶやきによって 埋め尽くされた
仮想現実を生きているのに過ぎないのではないか という 不安神経症を病んでいる。
湾岸戦争の際の 重油にまみれた海鳥は
一瞬わたしたちを 戦争というゲームの外に連れ出したが
だが 今や どうだろう
平和や 戦争の悲惨さや 環境問題といったさまざまなメッセージに
重油のようにまみれた、湾岸戦争という ひとつの 記号にすぎない。
海鳥のころは まだ素朴だった
崩れ落ちる二つのタワーは わたしたちを正気に戻す いかなる力も持ち得ず
あのときテレビに見入っていたわたしたちは
映画が現実になったのではなく とうとう
現実が(わたしたちの見慣れた)バーチャルに追いついたのだという
安堵感すらもったのではないか。
もはや 紛争地帯に身を曝しているのでなければ
どんな出来事もわたしたちを現実に向かわせることはできないのではないか。
戦争はどこにも存在しない。
平和がどこにも存在しないように。
紛争に身を曝しているものにとって リアルなのは戦争という記号ではなく
差し迫った死の恐怖と圧倒的な絶望感だ。
そして わたしたちに 戦争はない。
あるのは 変動する株式と 世界情勢 悲惨な画像 そして 戦争という記号。
今に限ったことではない。客体化するとはそういうことだ。
わたしたちのこの仮想現実を脅かす出来事を
すぐさま記号化し 飼いならし 世界の中に位置付ける。
その速度が 加速 しているだけだ。
言葉を失うほどの圧倒的現実 圧倒的悲惨さなど もはや 存在しない。
存在を許されないほどのスピードで 言語化され なんらかの意味作用をまとわされ 消失する。
言葉が ものの不在のうえに建てられた 墓標であるならば
もはや
<語らない>ことによってしか
ものに近づくことはできないのではないだろうか。
そのものを<語らない>ことによって、そのものについて語ることは可能だろうか。
言葉を失い立ちすくむという謙虚な姿勢ができるほど わたしたちの感受性を復活できるだろうか。
言葉の傲慢さに振り回されずにいられるだろうか。
墓標のうえに さらなる 墓標を積むのではなく
墓標をとりさった穴のまわりに 言葉をつむぎ 墓の下から リアルを掘り起こせるだろうか。
注;
「現実」だの「ものそのもの」だの「出来事」だのといった言葉を安易に使いました。
ここでは 耳鳴りみたいなもの と捉えて下さい。
きちんと認識しようと耳を澄ますと聞こえなくなってしまうけど、たしかになりつづけているかすかな耳鳴り。
それを捉えようと、言葉にしようとした瞬間消失してしまったけど、確かにあったように思われる、生々しい体験。
現実なんてないっていう主張もあるかとおもいますが、わたしは、知覚できないだけできっとあるんだって思っています。