あのなんて言うんでしょう?
肉と血がぐちゃぐちゃミンチになって飛び散るやつ、スプラッタームービーって言うんです?
さっき医局でちらりと目に入って、気分悪くなってます、あぶです。
こんばんは。
こういうこと言うと、普段がしがし切ってるくせに、とか言われそうですが、それは誤解です。
手術はね、切るものじゃないんです。
ましてやミンチとは無縁です。
「肉」っていって「赤い塊」を想像するのは、ミンチ映画の見すぎ。
身近にあるお肉を考えてみてください。
柔らかい牛肉を切れない包丁で切ろうとすれば、層状にくずれるでしょう。
スーパーで見る霜降り肉は、白いところと赤いところが、層状に積み重なっているでしょう。
焼き魚、上手につつけば、層状にはがれてくるでしょう。
生体は層状にできています。
近頃気づいたのだけど、料理のコツって素材の線維の方向性を理解することじゃないかなって思うんです。
隠し包丁をどの方向にいれるのか。
どの方向に材料を切るのか。
それによって歯ごたえも火の通りも味の染み方もまったく違うものが出来上がります。
手術でも同じこと。
こういうのを我々は「シヒト(
独 Schicht)を理解する」と言います。
Schicht=層。
「いいシヒトに入る」 これが上手な手術のコツです。
外科医は、目の前の生体が幾重にも折りたたまれた膜状物の層状構造として見えるようになるまで、繰り返し繰り返し、この「シヒト」という概念を叩き込まれます。
これを理解したとき、頑なに進入を拒む肉の塊、理解不能な暗黒の森としての身体が、突如文節化され、ひっそりと行く手を指し示す獣道と小川のせせらぎ、行く手を阻むように思われた大木の根がそこに分け入るための目印として見えるようになります。
暗黒の森は、木々がいっせいに手招きする見知った森となるのです。
スプラッターを見てしまった口直しに、今夜はそのあたりのお話しを。
人間の体はなにでできている?っていうありがちな質問。
「水でできている」でも「愛でできている」でも、答えのパターンはいろいろあるけれど
私は、膜でできている、って答えが好き。
そう、人間の体は膜でできている。
これは比喩じゃないよ?
何度も分裂を繰り返した受精卵はやがて袋状になり、その袋が幾重にも内部に折りたたまれて、折りたたまれて折りたたまれて、そうして私たちの体が形作られるんだ。
だから、私たちの体は無限の表面でできている。
無限の表面が折り重なった有限体である私たち、
私たちはその内部に無限を内包している。
皮膚から筋肉、内臓へと、丁寧に分け入っていくとよく分かる。
薄い半透明な膜が幾重にも幾重にも折り重なって、私たちの体はできている。
雨上がりの朝のびっちりと水滴のついた蜘蛛の巣のような繊細な薄膜が、私たちの体の織糸。
例えて言えばそう、映画「エイリアン」でエイリアンの巣を覆い尽くす蜘蛛の巣のような白い薄膜。
あれはまさに、生物が膜でできていることを最も端的に表している比喩ではないかと思う。
筋肉はもちろん(お肉にはすじがあるでしょう)、一見ただの塊のように見える脂肪だって、薄い膜でもって何層にも仕切られているし、血管も消化管も何枚もの薄い膜でゆるゆるに固定されている。
手術はその膜と膜との間の層に分け入るように行われる。
うん、そう、手術は「分け入る」なんだ。
「切る」なんて暴力は野暮だし、なにより美しくない。
発生の過程を考えたら分かるように、血管や神経、筋肉はこの層に沿って、膜と膜との間にある。
膜を垂直に貫くように走る臓器は例外的だ。
だからいい層に入ると、「切る」ではなく「剥ぐ」という動作(これを「剥離する」という。)で目的の臓器に至る事ができる。
手術の基本は、「切る」ではなくて「剥離する」だ。
剥ぐということ。
「分け-入る」ということ。
刃物も力もいらない。
ただ手をそっと差し込むだけ。
未知の山に踏み込むとき、行く手をさえぎる木々の枝を片っ端から手折りながらまっすぐ進むようなことはしないでしょう?
枝を一本一本手で避けながら、小さな獣道、小川の脇、木の根の隙間、許された道を細々と進むでしょう?
たとえ遠回りに見えても、それが最もリスクの少ない方法。
できるだけ切らないこと。
できるだけ力を入れないこと。
できるだけ相手の言いなりになること。
これが手術。
相手の中にある無限なんてまるで無視して、力任せにぐちゃぐちゃに切り裂くスプラッターとは
全然違うでしょう?
あ。
やっぱり最後にこじつけを言いたくなってしまいました。
無限を内包した存在として相手に敬意を払い、
そのひだの隙間に分け入るようにおずおずと手を差し入れること。
力や暴力や刃物を持たずに、相手の許した道から相手に入ろうとすること。
「分け-入る」こと。
手術の基本は、コミュニケーションの基本と同じようです。
それともセックス、を想像しましたか。