どういう経路でだか未だに不明だが とにかく結局押しつけられた研究生の指導も
こう忙しくっては 指導どころか顔も合わせられやしない。
仕方なく交換日記を始めた。
いや 私が命じたのは日記ではなく 研究ノートの提出なんだけど
(どういう実験をどういう目的でどういうプロトコールで行い反省点はなんなのか明日はどうするのか)
私の言い方がまずかったのか それとも個々人の能力差によるものなのか
学生のうちの何人かが 日記を書いてくるようになった。
病棟の仕事が終わって医局に戻り 誰もいない部屋の電気をつける。
周りより一層雑然とした一角が私の机 そこにくずれそうに積まれた数冊のノート。
一日の終わりにもうひとがんばり 一人一人のノートに朱入れをするのが日課になった。
下線をひき 宿題を出し 質問に答え 励まし 誘導する。
もう二週間もたつのに何人かのノートは 未だ日記の域をでない。
タメ息をつきながら夜中の医局で一人 真っ赤に書きこまれたノートを見ていたら ふいに母を思い出した。
脳梗塞で寝たきりだった祖父の介護のため
ほとんど子供達と顔を合わせられないことを悩んだ母は
交換日記を書くことを私達姉妹に命じていた。
日記の内容など何も覚えてはいないけれど
夜トイレに目覚めると台所の電気だけがオレンジ色についていて
私達の日記になにやら一生懸命書き込んでいる母の背中をそっと覗いた
裸足で歩く廊下の冷たさはよく覚えている。
おかえりって声をかければいいものを なぜかそっと足音を忍ばせて布団にもぐりこみ 寝たふりをしたのはなぜだったのだろう。
おっと いかんいかん。
この忙しいさなかに 死んだひとのことを思い出すなんて 疲れている証拠。
さっさと帰って 今日は寝るべ
なんてつぶやいて
静まりかえった駐車場で 車のフロントガラスに桜のはなびらがひとひら ふたひら 張りついているのにふと気がついて
おお桜じゃん
なんてわざとらしく口に出して 顔をあげる。
独り言は思いのほか大きく響いて
砂糖菓子のように春の夜更けをたちつくす 雪洞のような白い巨木たちに吸い込まれていく。
巨木の幹はあちらの世界を思わせるほどに黒々と闇に映え
ああ かの人は死んだけど 私は生きてここに在るんだ
そんなことを 思う。