自分の作品に後付の解説をつけるくらいこっぱずかしい振る舞いはないのですが、コメントに対するレスを考えているうちに、私の中の火種に火が点りました。
長いものになったことと、ここのところずっと考えていたブログコミュニケーションとリアルコミュニケーションについて言及することになりましたので、ここに記事としてアップします。
そう、ここには不整合があります。
何の不整合でしょうか。私が言おうとしているのは「「作品」と「現実」との不整合」のことではありません。私が言いたいのはこの文の「宛名」についてです。
これは紛れもない恋文ですが、決して届くことない恋文です。誰の電話も鳴らないのですから、誰もがこの恋文の「宛名」であり得ます。しかし、届かないことを前提とした恋文の宛名に身を置くことは可能でしょうか。
だからこの恋文を受け取ろうとするものは誤読の運命から逃れることができません。「読まない」ことによって誤読から免れることは可能ですが、「読む」ことを拒否した場合においてもこの舞台への参加からは免れません。・・・なぜでしょうか。
「彼」だけが唯一この劇場で盲目です。「彼」は盲目で、「私」の従者ですが、この劇場で唯一愛され祝福された存在です。「彼」に対して「私」は届かない手紙を送り続けなければならず、その意味では「彼」こそが主人です。
読者も「私」も、主人である「彼」をめぐる恋の祭り、出会いの祭りに参加することを、この舞台は要求します。しかもこの出会いは失敗に終わることが義務付けられています。
この作品においてそれは顕著ですが、私のブログではいつだって手紙は届かず、電話は鳴らず、コミュニケーションは失敗に終わります。あるいはそれはまだ、始まってすらいないのです。
「ブログのおもしろさはその覗き見的なところにある」とはよく言ったものですが、しかし私達は覗き見られた生活を生きているのではありません。
生活は覗き見に先んじてあるのではなく、覗き見が生活に先んじているのです。
日常生活においてブログネタを探すということそのものがすでに、ブログの非-日記性を物語っています。では私達は作品を生きているのでしょうか。
もちろんそうではありません。「現に今ここに」ある私の肉体がそれを拒否します。
「現実」はままならず、コミュニケーションは現実において挫折を繰り返しています。
では覗き見られた生活を生きるのでなく、また作品を生きるのでなかったのなら、私達はどこに生きているのでしょうか。
決して指し示されることのない私達が生きている場所の痕跡を追う形で、ブログは展開されます。
「私」はただ電話をしないのではなく、「電話 しないからね」を書きつつ、電話をしないのです。そしてまた、「電話をしなかった」のではなく、「電話をしない」ということ、この現在時制の中に、ブログのブログたる所以、私小説を日記という体裁で提示することに秘められた可能性が表されているのではないでしょうか。
ブログはそれが過去形で書かれたものであっても常に現在時制です。とすれば、作品は劇場で上演されているのではなく、劇場が作品なのです。その劇場では、作者と女優と監督と支配人がステージに上がります。そして観客さえも、拍手をしながら(あるいは座布団を投げながら)ステージにあがるのです。
作品は完結せず、観客の拍手が作品のエピローグを変えます。エピローグはプロローグとなり、循環が誘われます。しかしそのためには、作品は「失敗」したものでなくてはなりません。
この作品は「失敗」したものです。コメントの多さがそれを物語っています。滑らかな連続を装う、「私」と作品の監督である「私の中の誰か」と、その間の綻びが失敗の原因です。
文を書く事にいやおうなく付いて回るこの亀裂、それこそが「今 まさに そこで」文を書きつつある人を指し示します。
いつだって文をかくのは私ではなく 私の中の誰かです。この亀裂に私は存在します・・・痕跡として。
成功した作品では、監督がステージにあがることはありません。ましてや観客がステージにあがることもないのです。
しかしブログは参加を強要します。ROMにおいてすら、その書き手が「現に今」書きつつあるというそのことが、読者をステージに上げます。
ブログのもつ「促迫」とはこの故です。「現に今」ということ。私はこの作品をブログならではのものだと考えていますが、それはこの文の記述が「電話をしなかった」ではないからです。私は電話をしない、のです。これからもずっとしないでしょう。電話をしないことによってブログを続けるのです。・・・・・ブログは完結しません。
真にブログ的なブログは構造的に失敗を運命付けられています。
電話をしない、私がいるということ。
世界中に、ここかしこに、電話をせずにいる「私」が、届かない手紙を書き続けているということ。つながりたいという思い、つながりたいという促迫はここからやって来ます。
私はここのところ、ブログコミュニケーションで出会ったあなたと、肉体において(=リアルで)出会いたいと思うこと、そのことの意味をずっと考えてきました。
届かない手紙を盗み見ること、宛名に身をおかずして手紙を受け取ることができるということ、それがブログを読むおもしろさでありますが、しかし肉体において出会うことでこの特権は侵害されます。
リアルコミュニケーションに引きずり出された私達は、まさにこの届かない手紙の宛名の場所に身を置くことを要求されるのです。
オフ会で感じた私の違和感はこれ故だったのだと思います。
手紙はいつも届かないことを運命付けられており、コミュニケーションは失敗に終わります。にもかかわらず私達は、届かない手紙の宛名に身を置きたいと切望するのです。
この切望はどこからくるのでしょうか。
観客ではなく、この舞台で唯一の盲目の存在としてステージに上りたいと思うのはなぜなのでしょうか。
宛名のもつ不思議がここにあります。
宛名のもつ力は、肉体が持つ力です。確かに肉体をもった存在として、この世界に場所を占めているということ、それが宛名のもつ力です。
リアルコミュニケーションを阻害するのは、肉体ではなく言葉のほうです。肉体は「ただ向かい合ってそこにいればよい」のですから。言葉こそが、届かない手紙が、ますますあなたを遠ざけ、私は
狂ったように闇を引っ掻くのです。
その場合言葉は無限に続く狂おしい愛撫にほかなりません。
肉体の持つ圧倒的力が、この愛撫を救います。
あなたのまなざし、あなたの声、あなたの吐息、あなたの肌触り、あなたの肉体がこの愛撫に中止を持ち込みます。私達は「分かったつもり」になり、互いへ至ろうとする努力は寸断されます。
しかしこれは本当に「つもり」に過ぎないのでしょうか。「つもり」に過ぎないのならば、なぜ私達はこんなにも会いたいと思うのでしょうか。
私が「彼」に電話をかけないのは、彼が肉体的存在であることをすでに知っているからです。だから電話をかけないことが可能となるのです。彼の声によって届かない手紙に中止が持ち込まれるのを恐れるように、私は電話をかけないのでしょうか。いいえ、だとしたらこのコミュニケーションは幻想にすぎないことになります。そうではなく、この世界に空間を占めていることの圧倒的優位さ、肉体的存在であることの特権を届かない手紙のBGMにしたかったのです。そんなふうに味わうことも可能なほどに、肉体のもつ力は私達を圧倒しています。
こんな記事を挙げた後でも、PCの向こうにいるあなた、私はあなたに出会いたいと思っています。肉体的存在としてあなたと向かい合いたいと思っています。
それは分かり合いたい、などという甘いものではない、存在をかけて味わいつくしたいとも言うべき欲望に根ざしています。
届かない手紙の宛名にあえて名乗りをあげようということ、その困難への挑戦の中にこそ、出会いの可能性があるように思われるのです。