長々と義理堅く書いた
オフレポは、この文を書くための前置きであったのだと思う。
言い訳、といってもいいかもしれない。
言い訳? 何に対しての?
そう、言い訳。
オフ会の間中感じていた居心地の悪さへの、あるいは、
顔を引きつらせて不器用な笑みを湛えていた自分への
言い訳。
こんなことを書くべきではないと十分すぎるほど承知していながら
にもかかわらずこの10日あまりの間、このことを言葉にしようという思いだけが私を支配してきた。
あそこで私が感じていた居心地の悪さはなんだったのだろう。
それに答えるのでなければ、私がブログを続けていく理由さえあやふやに消えゆくように思える。
いつも楽しそうなオフレポを陰からこっそり拝見してきた。
まだお会いしたことのない方々の、素顔が見れるような気がして、オフレポを読むのは楽しかった。
いつか自分も、その場に身を置いてみたいと思っていた。
あるいはまた、そういったお祭りに参加しなければ、置いていかれるような気がしていたのかもしれない。
(もちろんオフ会が楽しかったことは言うまでもないし、参加してよかったという気持ちは変わらない。ここで問題にしているのは、楽しんでいる私の、にもかかわらずしっくりこない居心地の悪さについてである。)
リアルの場にabsinthを引き出すということについて、私は少し簡単に考えすぎていたのかもしれない。
パーティーに突然連れてこられたabsinthは、少し戸惑っていたように思う。
そこで出会った友人達は、absinthがこの一年の間、身をさらけ出し迷いに迷った一言一言で亀の対話をし、そうやってつくってきた友人だった。
私が簡単に間に入り込んで、薄笑いやその場しのぎの冗談で応対していいような人達ではなかったのだ。
電話やメッセ、リアルタイムでの応対ほどたくさんの言葉が繰り出されるのではないし、声、表情といった情報もない。
でもだからこそ、そういったものに邪魔されずに全身を耳にして為される研ぎ澄まされたコミュニケーションがあり得る。
ブログでabsinthが為しえた、その何分の一かのコミュニケーションもとれなかったということ。
現実に存在する私の声、姿が、私とあなたの間に立ちはだかり、あなたがあまりに遠いから、
私はあなたに伝えようと言葉を選ぶことよりも、いい加減な薄笑いと適当な相槌でその場を過ごすことの方を選んでしまったということ。
居心地の悪さはそこにあるのだ。
顔や表情、声といった外殻が伝えるものもあるのだろう。
それをどう受け取ってもらったところでかまわない。
それもまた、私だ。
問題は、それらに頼って私がコミュニケーションの努力をあきらめつつあった、ということにあるのだ。
2日間の自分の言動を幾度も思い返した。
いい加減な相槌を打ったのではないか、適当に頷いたのではないか。
体臭を気にして対人距離を置いたのではないか。
私の表情は、私の思いを裏切っていなかっただろうか。
始まりからリアルな対人関係ではほとんど気にされず流されているそういったある種の油断について、こんなにも思い悩んでしまうのは
ブログで培われてきた関係が、私にとってあまりに純化されたあまりにナイーブなものであるからなのだろう。
ここまで書いてきてやっと分かった。
なんのことはない。
「リアルは素顔ではない」という当然のことに思い至っただけなのだ。
どれがより本物に近いかなどという思考をするつもりは毛頭ないが、私の伝えたいことをより反映しているのはどれなのか、を選ぶことはできる。
私にとって、ブログコミュニケーションは「招待」である。
掲示板に書き散らすのでも、チャットやメッセで喋り散らすのでもない。
ましてリアルで薄ら笑いを浮かべるのでもない。
(リアルで行われる「真面目な」議論でさえ、議論の場へ「出かけて行って」の議論なのだ)
それらが、自分という殻から外へ向かっての表出(あらゆる防御も攻撃性も表出の中にある)であるのに対し、
ここでの言葉は外へと出て行くものではなく、あなたに向かって展示されているもの、あなたへの開かれである。
そう、ブログは招待である。
私の中への招待。
私の中へ、私の ここへ、どうぞ。
これからも。
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10日間暖めていたこの文をアップしようと思い立ったのは、はりパパさんの
この記事の影響によります。(内容がずれているのでTBはしませんが。)