買い物恐怖症
私も買い物恐怖症。
よっぽど困らなければ、服も雑貨も買わない。
先日ジーパンが破れて、6年ぶりにズボンを買った。
学会用のスーツを買ったのは、3年前。
最後に靴を買ったのは・・・・いつだか覚えていない。
看護師さんがお下がりをくれるから、間に合ってしまう、というのもあるけれど
それだけじゃない。
「モノを所有すること」が 怖いのだ。
なにかを選び取り、所有することの重圧。
私の狭い6畳の空間を占拠するだけじゃない。
たんすの中から「私を使って」「私を愛して」と、声にならない声をあげ、私を脅迫するモノ達。
だいたい今どきのモノ達は、丈夫でめったに壊れないから、手に入れてしまった以上、気の遠くなるような時間を、共に過ごさなくてはならない。
人並みに欲しいと思うモノに出会わないわけじゃない。
でも、手にとって、いつも考える。
この子が死ぬまで、愛せるだろうかって。
男との出会いに、似ていなくもない。
だが、相手が人間であれば、関係はお互いに責任があるって言い訳もできる。
「モノ」は違う。
一方的に私からの愛情に依存し、彼らとの関係は私に全責任がある。
もともと 私のモノの管理能力は極めて乏しいし、愛情も少ないのだ。
そして もうひとつ。
購買という行為が嫌。
「購買せよ」「購買せよ!」「購買しこの世界に参加している証をしめせ」
世界中が脅迫的なこの声で満たされているような気がする。
必要や飢えではなく、この声に脅迫されモノを買う。
手に入るのは、欲しくもなかったはずの付加価値と、モノの残骸。
「いいや、お前が欲しかったのは、それそのものではなく、それが持っているように見えた価値さ。
よおく自分の胸に聞いてごらん、本当にそれが欲しかったのかい。
違うだろう、お前はそのモノなんてどうでもよかった。
ただ、<購買>という行為をしてみたかっただけさ。
だからお前には、そのモノから魂を抜き取って残骸をあげよう。不必要なものだからね。
なまじモノに魂なんか入っていたら、やっかいで、次の購買ができなくなるだろう?
でもちゃんとお前は金額相当のものを受け取っているはずさ。
消費に伴う快感と、世界への参加権、それにほら残骸になってもそのモノは富の象徴として価値があるだろう?
そう、それでいいんだ。それでこそ、この世界の住人さ。」
モノの残骸を抱きしめて泣く私の耳元で、誰かがささやく。
「そうじゃない、私は本当にこの子が欲しかったのに。
手に入ったらどんなに嬉しいだろうって思っていた。
ブランドが欲しかったわけじゃない。流行に乗ってみたかったわけじゃない。
お金を使ってみたかったわけじゃない。」
「本当に欲しかった?ふっふっふ。
そうかい、それならお前がそのモノに魂をふき込んでごらん。できるものならね。」
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モノは購買によって魂を抜き取られ、所有によってふたたび魂を取り戻すのだろうか。
欲望の目指すものが隠蔽されている以上、本当に欲しいもの、なんてまやかしにすぎない。
でも、ものを買うことはできるはず。ものとの真の出会いがどこかにあるはず。
購買する勇気をもつということ。
脅迫の声に耳をかさず、惑わされず、でも、逃げないということ。
モノを殺す勇気をもつこと、残骸を抱きしめ自分のものとする力をもつこと。
はぁ・・・・・・・私は まだまだ 子供だ。