風邪に点滴?
braさんからのご質問。遅くなってすみません。
最近風邪でふらふらになった友人が、医者へ行って点滴を打つと、翌日、見間違えるばかりに回復しました。友人曰く「風邪なんて点滴で一発や」。過去にも何度か点滴で直したことがあるそうです。ほんとなのですかね。だったらなぜ一般的な治療法にならないのでしょう?・・・・・追加で、点滴の成分も!
Braさんのお友達のように、風邪で点滴をしたら元気になった、という経験をお持ちの方はいらっしゃるはずです。風邪に点滴は効くんでしょうか。
医師としての答えは決まっています。Noです。風邪に点滴は直接は効きません。
点滴の基本的な意味は補液、脱水の是正ですので、口から水分を取れる人間に、あえて静脈内投与をするのは過剰医療です。第一痛い。コストもかかる。医療財政が破綻しかかっている今、必要のない医療行為は慎むべき。
それに点滴だって身体への侵襲行為。隣の人の別の薬が注射されちゃうリスクだってないわけじゃない。出血するかもしれないし、点滴液が漏れてしまうかもしれない。
気軽に行われてはいますが、気休めで行うには、点滴はリスクの高い行為です。
そんなわけで風邪への点滴の適応は、ひどい下痢や高熱でたくさんの水分が失われ、かつ口から水分が取れない人に限ります。
少し前ならいざ知らず、今では多くの医師がこう答えるでしょう。
マスコミやインターネットでもこの手の質問/答えは多く見かけますし、一般の方にとっても、「風邪に抗生物質は効かない」とともに、よく知られたことになりつつあるのではないでしょうか。
にもかかわらず、風邪で点滴をしたら元気になったという経験をお持ちの方は確かにいらっしゃり、外来で風邪ひきさんに点滴を懇願されることもしばしばです。
どうしてなんでしょう。
現代医療への幻想だけでは説明がつかないような気がします。
風邪と点滴 このふたつには、単なる俗信や偽薬効果以上の何かがあるような気がするのです。
久々の医療ネタ。 今日は 点滴の意味について考えてみる です。
【点滴の意味について考えてみる】
風邪をひいたり泥酔したりで、外来にかかったときにされる点滴の主成分は 水。
正確には<体液に似せて作られた水>で、電解質や糖分が含まれていますが、それはあくまで体液に似せる為であって、何らかの薬効成分を含んでいるわけではありません。(カロリーも低く、ジュース程度の栄養補給にしかならない)(注1)
こういうベースになる水のパックに、必要に応じて、ビタミン剤などの薬剤が加えられることになりますが、点滴に加えるこういった薬剤は おかず と呼ばれます。(注2)
「脱水気味だから お水入れときましょうかね。」
「先生 おかず なにか入れます?」
「いいや 単身(たんみ)でいいですよ」
こんな会話が交わされた後に、あなたに繋がれる点滴は、ただの水 です。
水であるから、風邪のウィルスを直接殺したり、喉の痛みを取ったり、咳を止める作用はありません。
にもかかわらず、添加される薬がおかずで、主食が水 というのはどういうわけでしょうか。
つまり加えられるおかずではなく、主成分の水にこそ、点滴の意味があるのです。
火傷であれ、手術であれ、身体に広範囲な侵襲が加えられると、身体はなぜか、水と塩を蓄えようとします。血管透過性は亢進し、間質に水が蓄えられ、相対的に血管内は脱水となる。(参考:
浮腫んで ますか)
程度の差こそあれ、風邪のウィルスに感染したときだって同様。熱もそれに拍車をかける。
傷ついた身体は水を欲しがる、のです。
「水分をしっかり取ってよく休んでくださいね。」
風邪ひきさんへの外来での決まり文句。ほかに言うことがないから言っているわけでは決してありません。
疲れているときのみそ汁がおいしいのだって、たぶん同じ理由。
だから水を補給する、という意味では、外来で風邪に行われる点滴だって、あながち間違いってわけではないのかもしれません。
でもお腹をこわしていたり、口に物を入れる気力がなかったりするのでなければ、必要に応じた水分を自分で取る力を誰だって持っているはず。
そうでなかったら、点滴が発明される前の幾万年の乾いた歴史を、人類が生き残ってこれたはずもありません。
経口摂取のできている、つまり自分で脱水を是正できるはずの人に、たかだか200cc~500ccほどの点滴が一体何の意味を持ちえましょうか。
脱水状態の人を除いて、風邪ひきさんへの点滴が意味を持つのは別の側面であるように思います。
血管を針が貫く痛みと引き換えに手にされるべき健康への期待感。
たとえ2時間、3時間であっても、ベットに横たわり確保される安眠。
あるいは、一滴一滴と身体に注入されるなにものかへの満足感、満たされていく想い。
でもそれだけではない、さらに別の意味が、点滴にはあるように思えるのです。
点滴を刺すことを、「ルートをとる」と呼ぶことがあります。
この場合の点滴は、体内に入る水分や薬剤を指すのではなく、身体の内部(つまり血管およびその中を流れる血液)への侵入路を意味します。
緊急時にまずその身体に施されるのは、この「ルートをとる」という行為。
「ルートをとる」こと、身体への侵入路を手にすること、医療行為はそこから始まるといっても過言ではありません。この侵入路から、あらゆる薬剤が注入され、医療の身体への介入が可能となるのです。
ICUで体中に何本もの点滴が差し込まれた身体を、スパゲティー人間などと揶揄する言い方もありましたが、それはなにより、他者にいくつもの侵入路を与えることで、その閉鎖性を明け渡し、無防備に横たわる身体への同情と、他者への侵入という暴力を救命処置の名のもと堂々と成しうる現代医療への嫌悪感から生まれたものではなかったでしょうか。点滴に繋がれることによって、人は身体を明け渡し、患者となるのです。
同時に、点滴の与える快感はこの点でもあるようにも思います。
かつて大地に、自然に、あるいは共同体につながれていた身体は、現代においてそのどちらからも切り離され、個人において所有されているように見えます。
でもその分、医療という身体への介入装置―マスター機械に繋がり、定期的に養分を補給され、管理され、その責任を明け渡すことをどこかで望んではいないでしょうか。
思うとおりにいかない身体を一人抱え、孤独に格闘している私たちは、ルートに繋がれることによって、充電装置に接続され無防備に横たわる肉体機械となって、その肉体の重みを、生の孤独を、死への不安を、現代医療という大いなるシステムに明け渡すことができます。
遮断され隔離された孤独な身体が、点滴というルートによって外界に開かれ世界と繋がる。
点滴は現代における新たなるつながり、新たなる呪術、世界のへその緒なのかもしれません。
いくつもの医療ミスが報告され、医療者から己の身体を守ろうと過剰なほどの注意深さを発揮する一方で
あまりに無防備に 医療行為に身を晒す私たち。
孤独な私たちの身体は、その孤独ゆえにますます無防備になっているのではないでしょうか。
点滴への期待は、無知あるいは医療への期待というよりむしろ、孤独な身体の幼児性への退行のように見えて仕方ないのです。
医療行為だけではありません。
情報であれ、食物であれ、知識や教育であれ、あるいは共有される感情であれ
私たちの身体に侵入を試みるものに対し、
私たちは、進んで無防備であるように勤めているようにすら、見えはしないでしょうか。
点滴に繋がれ 外来ベットに横たわるいくつもの身体。
それは SF映画の 機械に繋がれ充電されるロボットのようにも
あるいは 母の乳房にぶら下がる乳児のようにも 見えるのです。
注1)外来で手や足の細い静脈からされる点滴の場合です。入院中に足の付け根や首や肩から太い静脈に向かっていれる中心静脈栄養では、高いカロリーを入れることができます。
注2)必要に応じて、と書きましたが残念ながら、このおかずはあなたの体の必要に応じてではなく、医師の気分によって添加されることも多いのです。
かつては、単なる水ではなんだから というあいまいな理由で、ビタミン剤などが添加されることも多くありましたが、たった2、3日ご飯を食べられないだけの人にビタミン剤を静脈内投与する行為を推奨する証拠は今のところ ありません。透明な水よりも色つきの水のほうが効くような気がするというレベルであるなら、確かにそうかもしれませんが。