熱燗を好んで飲むようになったのは いつからだろうか。
若い頃は 日本酒は冷やに限ると信じていた。
山道で出会った涼やかな甘水を 両の手で掬って飲み干す様に
枡になみなみと注がれた きりりと冷えたそれを
喉を鳴らして 飲んだ。
酒の味が変わるからと つまみはあまり好まなかった。
ころころと鈴の音が鳴るような その清らかさを愛し
その芳香をゆっくりと醸した 切り裂くような冷気を想い
そうありたいと自らの生き方を重ねていた。
あれはいつのことだったか。
そう 昔つきあっていた男から 子供が生まれました の葉書が届いた夜だった。
未練があったわけでは全くないが
別れてなんの音沙汰もなく数年を経た後に 何を思ったか昔の女に子供の写真を送りつける
その無神経な大らかさに
喉元までこみ上げる何かを抑えきれず
いつものように 辛口の冷酒をコップに注いだ。
だがその夜に限って
いやそんな夜だったからなのか
冷えた酒は喉を通らず 替わりに苦い何かが鼻の奥を伝っておりた。
こんな時にうまく泣けるほど できた女ではない。
替わりにコップの酒を湯呑に移し 電子レンジで燗をした。
湯気をあげた湯呑の酒は 甘く 胸元をゆっくりと暖めながら胃の腑に落ちていった。
ふっと ため息をつくと 冷たい台所に白く 吐息が見えた。
燗酒にはまったのはそれからか。
徳利なんて上等なものは持っていなかったから もっぱら電子レンジで燗をした。
ちょっと目をそらすと 湯呑の酒はすぐに沸騰してしまい 始めはなかなかうまくいかなかった。
冷え切った暗い台所で ひとり裸足で震えながら 10秒20秒と数を数えて燗をした。
温度による旨みの差も覚えた。
冷酒の時には分からなかった ふくよかさ 奥深さを知るようになった。
つまみも 食うようになった。
つまみによって 酒の味が変わることも 知った。
想像を絶する取り合わせが 時に奇跡を生むことも知った。
熱燗をたしなむようになって
物事にはいろんな姿があることを知った。
人を赦し己を赦すことができるようになった。
だけど 今でも
こんな風の吹く こんなしばれる夜には
窓を開け放って
冷酒を呑む。
今はもう
手の届かない
かつての私に 乾杯する。