それはこんな 冷たい秋雨の降る 夜だった。
仕事帰りに行きつけた 小さなバー。
カウンターで身を寄せ合い ひそひそと睦じ言を交し合っていた カップルが帰ると
客は 私一人となった。
時計はもう 1時を回っている。
グラスの底にわずかに残ったバーボンを流し込み
ごちそうさま そう言いかけた私を マスターの声がさえぎった。
「・・・・・今夜は よい晩ですね。」
無口なマスターにしては 珍しいことだ。
お陰でバックに向かって伸びた手は そのままもう一度グラスの淵を逡巡し
「何か 甘いお酒を。 マスター。」
明日の仕事が一瞬頭をよぎったものの
判断を甘くしたのは 先ほど流し込んだバーボンのためか
あるいは マスターが磨くワイングラスに一瞬 映るはずのない月が 映ったように見えたためか。
ほどなくして ことり と目の前に置かれたのは
森の中の忘れ去られた沼もかくのごとくは とも思われる深い緑を湛えた液体であった。
それが何の酒であるのか問いかけもせで その緑に吸い込まれるように 唇をつける。
こんな時余計な言葉は何の足しにもならないことを このバーに通うようになってから私は知った。
その液体が身にまとう名前も 幾百年の想いも 後からついてくればよい。
初見の恋に出会うときは いつだって沈黙こそがもっとも美しいBGMなのだ。
ぴりりと舌に走る鋭いしびれ 乳を思わせる官能の甘いささやき
鼻先に抜けるアニスの芳香
焼ける様に熱いそれは 喉を焦がしながら私の中をのろのろと滑り落ちていき
波となって私の細胞の隅々に共鳴し 指先に炎を走らせる。
そして 甘いキスから覚める様に目を開けた
その瞬間 ぐらり と 世界が揺れた。
ため息とともに 我に返ると マスターの穏やかな笑顔が すぐ目の前にあった。
「・・・・どうです?」
試す様にこちらを覗き見る いたずらっ子のような視線に戸惑い
私はあわてて バックに手を伸ばした。
「ごちそうさま
もう帰ります。」
すべてを見透かす様に マスターはゆっくりうなずくと
傍らのボーイにコートを取るよう目で合図を送った。
いつのまにか雨はあがり オレンジ色の大きな半月が 冷たく濡れたアスファルトを照らしていた。
「またのお越しを。」
「ええ・・・でも すこし忙しくなるから・・・」
「いいえ あなたはまたすぐ いらっしゃるはずですよ。
あなたの中に入ったそれが そうさせる筈です。」
預言のようなその物言いにすこし傷つき 返事もせずに歩き出した私の背中に マスターが声をかけた。
「おやすみなさい し・・・ぞうのおんな さん。」
誰にも言っていないその名を言われ ぎょっとして振り向くと
バーの看板の鈍い光を背に こちらをじっと凝視するマスターの姿が目に入った。
マスターの目が 月と同じ色に一瞬変わった様に見え
私の中で 何かが ゆらりと 炎をあげた。
結局マスターの預言通り 次に私がそのバーを訪れたのは その2日後だった。
最後の客がいなくなるまで わざとCOINTREAUをゆっくり舐めていた私の前に
また ことりと 緑の液体が置かれた。
もう ためらいはなかった。
私の中の細胞という細胞がそれを欲していた。
目の前に立つ男の唇に欲情するそれのように。
狂おしいほどの痺れが四肢を伝い もはや私は抗うすべを知らない。
むさぼるようにそれを飲み干すと また
世界がぐらりと揺れ
目の前に マスターの微笑があった。
こうして私は 三日とあけず バー「shocker」に通うようになった。
最後の客が帰ったあと 決まって私の前には 緑の液体が置かれ
そしてそんな夜には きっと 月は赤く燃える様であった。
私の身体にも確実に変化が現れていた。
消しても消えない小さな炎が 身体の奥底に灯ったのだ。
何かの折にその炎は ゆらり と大きく揺れ
その度に私は息を詰め
身体の奥をある種の痺れが通りすぎるのを待たなくてはならなくなった。
日増しに冬の匂いを濃くする風は 私の身体には痛い様に美しく感じられた。
足元に降り積もる木の葉は燃える様に赤く
雪を抱いた郷の山は息を飲むほどに神々しく
今生きてこの世にあることの美しさは 何物にも替え難いものとなった。
そして同時に 私は移り行く季節に身を切られるような切なさを感じ
やがて迎えるであろう花の季節を死の様に 恐れることとなった。
アパートの鍵をあけようとして 空を仰ぎ
当たり前のようにそこにあるオリオン座に
私は 叫ばずにはいられない。
遠くで 犬がそれに答える・・・・・・凍みるような 夜。
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