一人の青年が何の理由もなく殺された という。
確かに彼が殺される理由はなかったが だが 彼が殺されない理由も なかった。
(いやむしろ すでに死すべき者の位置に自分を置いたテロリストにとっては
今日殺されつつある幾多の人間に対して
今現在死に面していない我々全員が 死と直面せずこの安全世界で生きているという理由において
殺されるべき理由を持ち得るのではないか。
自国が世界中で嫌われていることに初めて気がつき首をかしげるアメリカ人を笑う権利は我々先進国の住民にはない。
我々もまた のほほんと生きているという理由で 殺戮の対象となりうるのだということに 気づかないふりをしている。)
人の生き死にに 理由など必要ない。
生きることにも 死ぬことにも それを正当化する理由などないし
そうやって 私たちは 虫けらのように 死んでいる。
「もう一度 日本に戻りたいです。すみません。」
そう言った 数日後 彼は殺されてしまった。
きっと殺されるだろう ・・・・多勢の無意識の思いがあったかどうかは知らない。
だが 驚くほど能天気なことに
少なくとも私は 彼の死体が見つかったとき 正直衝撃を受けたのだ。
いや 彼が殺されるとは思っていなかった自分に気がつき そのことにショックを受けた。
彼は殺されるべきではない と無邪気にも信じていた私がいた。
まさか自分の命が歴史の屑として消されるほどの重みを持ちうるなどと想像だにしなかったであろう彼。
言葉のそのままの意味において 想像を超えた出来事が起こりうるのだということに それこそそのままの意味で思いが至らなかった彼。
その無邪気さ その甘さ その能天気さゆえに 彼は殺されるべきではないと 私は無意識に信じていたように思う。
だが 当然のことながら ある一人の人間が 殺されるべきではない理由など どこにもない。
一人の人間が 殺される理由がないのと同様に 殺されるべきでない理由 などないのだ。
その意味で 人命が尊いなどというのは 戯言だ。
今回彼らが取引したのは 日本政府で
人質に取られたのは 世論 だ。
彼の生き死になど その材料にすぎない。
(今回の件に際して)己の存在価値を示さねば生きることすら認められないのかと嘆く論調もあるようだが
この取引の場面で (表向きの)人質である彼の存在価値は まさに死にゆく者 としての価値である。
人質にとられたのが 自分探し途中の若者であろうと 世界的聖女であろうと 一国の大臣であろうと それは 変わらない。
生きるための存在価値など 皆無だ。
取引の場では 取引の材料としてのみ その存在価値が問われるにすぎない。
(映画 プライベートライアンでは 一兵士ライアンを救うべく命がけの救助劇が行われるが その動機は ライアンの命などではもちろんなく ライアンを救うことで軍が得られる社会的評価であった。)
だから
人命が尊いなどというのは 戯言だ。
国家間の力のせめぎあいや 市場経済を支えるグローバルな大企業の存亡に比べたら
人命なんて 今日3千人、明日5千人といったレベルで束にして叩き売るか
あるいは「つぶらな瞳をした年端のいかない子供」だの「正義を信じる若い兵士」だの「罪のない(または善意の)民間人」だのと
同情心に訴えかける付加価値をつけてはじめて天秤の片側にのることが許されるにすぎない。
人命なんて所詮 天秤にかけたり 数字で比較したり
国籍やその人の行動規範やまとった衣装で影響をうける程度のものだ。
「人命は尊い」という発想を、括弧に括ろう。
「人命は尊い」という言葉は 思考を停止させ 探るべき未来の可能性の幅を狭めるから。
人命は尊くない。虫けらのように毎日毎日世界中で人が死んでいるのだ。
誰が何人死のうが世界は回る。そうやっていったん突き放して
現状の打破のためになにができるか 探るべきだ。
人命は尊くない。尊くないが しかし にもかかわらず 死んで欲しくないという 祈りが残る。なんの正義も含まない 一方的な 手前勝手な 祈りだ。
どうやったらこの殺戮の悪循環をとめられるのか 考えているのは 「人命は尊いから」じゃない。
目の前の患者を死なせたくないのは 「人命は尊いから」じゃない。
私は 祈りを捨てないが
祈りを 思考の根拠には しない。