生者は生者の領分で
こういう 誤解をうけやすい文を書くから この人が好きだ。
こうでなければ 伝わらぬものが あるのだろう。
話しは 変わる。
「相手の痛みを想像する」 って なんだか 胡散臭い と思う。
私が、その人の痛みをダイレクトに 自分の痛みとして感じることができる(感じてしまう)のは
せいぜい 家族か友人 いっても目の前の相手くらいか。
その他の何十億の人々 それから すでに死んだ人も これから生まれる人も
私にとっては 赤の他人どころか 石ころと変わらない。
私達が 人が殺されるのをみて 「痛い」と我ことのように感じるのは 想像力の賜物だ。
想像するのは悪くないし 私だってTVを見て 痛がったりしてしまうけど
そうやって いわば 他人の痛みを 我こととして 了解済みにしてしまう ずうずうしさ。
「他者」を 「自分」で置き換えてしまう っていうのかな
あるいは
「死者」を 「生者」に 引っ張り出してしまう っていうのかな
いずれにせよ 了解可能な こちらの世界に引きずり出して
仲間意識でもって 痛みを共有し合う みたいなところ。
それ よくやっちゃうんだけど
それは 仕方ないと思うんだけど
その 自分勝手な「了解」に 行動の規範をおくのは どうかと思う。
だから
人を殺す前に 相手の痛みを想像してみましょう とか
爆撃されるその国にも 同じ人間が住んでいるんだ とか
そういった言い方は 好きではない。
「イラクの子供たちの痛み」故に 爆撃をするな という主張は
私達の想像力に限界がある以上 条件付の殺人の禁止に 他ならない。
私達が 「倫理的」であるのは そんな ちっぽけな想像力のおかげじゃ ないんじゃないか
私は そう思っている。
「私はなぜ人を殺さないか」の答えは
相手の位置に自分を当てはめてみること
そうやって いわば 自分勝手に 相手の痛みを想像してみること
そんな 「一生懸命な」道徳 には ない。
もっと 反射的に 瞬間的に 私は殺人を選ばない。
そうさせているもの それが 「死者」 あるいは 「他者」 だと思う。
私のいっさいの想像力や 私の自分勝手な同化 を超えた存在、了解不可能な存在である 「他者」あるいは「死者」。
他者と私との間に横たわる 無限の距離
絶対的に どこまでいっても了解不可能な他者 に 対する畏怖が
私をして 倫理的存在 たらしめている。
殺人ということに関して言えば
了解可能な仲間だから 殺しちゃいけないわけじゃなくって
理解不能な絶対的な他者であるが故に 殺さない、殺すという力を及ぼさない のだと思う。
世界の扱いということで言えば
この世界は 私(達・・・・この場合の「私達」は勝手な思いこみなのですが)のものではなくて
私以外の 他者達のものだ と考えること。
そうやって 謙虚に世界と 向き合うこと。
>死者は口をきけねえ。
>この世は死者のもんでもある。
なんだか 優しい気持ちになる 城代のセリフ。
私なら 誤解を恐れてもうちっと固く 「他者」 と言うな。
・・・・・・うーん やっぱ 「死者」の方が いいか。
なんだか レビナス ちっくになってしまった・・・・と思っていたら
pavlusha さんが 同じ記事から TBで レビナスに触れていらっしゃました。
同じことを感じた方がいるって なんだかうれしい・・
こちらのほうが ずっと分かりやすく 書いてくださっています。