というわけで家(土地)探し。ちょっと車を走らせれば、朽ちた空き家がそこらじゅうに目に付く過疎地、中古物件探しなんて簡単なものとたかを括っていましたが、土地も家も貸すことはしても売りに出されることはあまりないようで、田舎物件を扱っている不動産屋さん曰く、売り物になりそうな物件を探して地主さんに売却をお願いに行くのだそう。
私が生まれ小学校まで過ごした家は、閑静な住宅街、当時は同じ世代の子供を持つ家が密集しており、近くの公園では遊びまわる子供達の歓声が絶えない街でした。点在する公園(西公園、北公園、東公園・・といった具合)、ぽつりぽつりと交番のように地域を見守る駄菓子屋、子供の足でも20分歩けばうっそうとした鎮守の森の裏山にたどりつくことができました。
その街がたった20年で子供のいない静まりかえった老人の町に変わり、寂れたかと思えばむしろ鎮守の森を囲む田んぼを潰して作られたバイパス道路のお陰で地価だけはあがり、懐かしさだけで持ち続けるには大層な負担になり手放してからはや10年、そのバイパス道路も勢いに乗って次々と開店した大型店があっという間に他店に変わり、さらに数店を経た後更地になるか、よくて駐車場かコインランドリーに変わっていく様を見れば、土地を売らずに持ち続けるという人々の気持ちは痛いように分かる。朽ち家だろうが野っ原だろうが余裕があるならば誰が好んで売るだろう。
はじめから多目的使用の都会の土地ならともかく、歴史も想いも残された生活の土地を求める以上、その歴史と想いに責任をもてる範囲の購買をしたい、土地探しは各々の土地の歴史探訪から始まりました。どの部落にも江戸時代に遡る歴史があり、明治に遡る記憶があり、戦中に遡る生活があり、そして私の歴史は40年に満たないということ。土地を手にするということは私個人の人生を上回る何かにひれ伏すということでもあるのだと居住まいを正されるような気持ちになったり、思いつきで始まった土地探しがいつしか自らの生き方を問い直す深みに続いているのを愕然と見通すような恐ろしさに襲われたり。
旧家の出ではないし農家でもないから、築100年の家や1000坪の土地は手に余る。でも住み手のないまま朽ちつつある築30年の住宅が、私たちが住み着くことによって70年の寿命になるのなら、そんな楽しいことはない。若い女性が身をすくめて小走りに通り過ぎる草だらけの小さな空き家の藪が払われ、気持ちのいい風が西から東へ通り過ぎるようになれば、そこで通学帰りの子供達を見送る私たちの生活はどんなにか楽しいだろう。いつしか私たちは探す相手をなにやら過去も感情もある生き物のように感じ、乞い乞われる必然の出会いを待つようになったのでした。(つづく)