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とある患者家族とのトラブルをきっかけに心身ともに「どこかちょっと調子悪い」状態が続いていた。なんのミスがあったわけでもないことを双方了解したうえでの、「にもかかわらず」のやりとりは、家族がひとつの死をうけいれるために必要なプロセスだったのだと頭では分かりながら、鋭い言葉にえぐられたダメージは自分で思う以上だったのかもしれない。いや、言われた言葉よりも何よりも、その人が亡くなるまでの三か月、私は本当に患者のことだけを思っていたのだろうかという自責の念が自分のこころの奥深い何かをがたがたにすり減らしてしまったような気がする。 先生、失礼なことを言ってすみませんでした。 そう謝られたのがさらに堪えた。悲しみの中にありながらなんとかそう言えたその人をああ、立派な人だと思った。この人が混乱のさなかにあったその時に、私はこの人に見合うだけの真剣さをもって向かい合っていただろうか。私の言葉はどこまでこの人に届いていただろうか。自分を守るための、あるいはまたその場をやり過ごすための、その場しのぎの言葉を吐いたことはなかったろうか。こちらになんの落ち度もない、寿命としか言いようがないというそのことが、私のこころを鈍らせてはいなかったろうか。 鈍い鈍い鈍い私のこころ。弱い弱い私。 弱さは罪だ。
ここは舞台ではない 誰かの夢なのだ 汚泥の中を這いずり回っているが如きこの疲労も 牛馬の如く脅され尻を叩かれているこの肉体も 誰かの見ているつかの間の夢だと思えば どうってこたぁない 病院の裏口から這出る 幾日振りの夜風だろう 碧い闇 ひたひたと零れる月 満開の桜が地に這い蹲る私を見て嗤う・・・触れ得ぬものの微笑で そして月は 月は私を知りもしない この痛みよ苦しさよ 芥子の一粒のような 取るに足らない ささやかな痛みよ なんてなんてなんて小さな 私の生 百年のち名はなく 行いもなく されこうべは荒野に嗤っているだろう 桜 桜 桜 百年のちもあなたはそうやって嗤っているだろうか 千年のち血は絶え 文字は絶え 切り株に腰下ろすは物言わぬ獣のみなるか それとも千年のちには 風も絶え 地も絶え ただ宇宙の塵のなかに ぷらすちっくの欠片が 何食わぬ顔で漂っているのだろうか 万年のち ただ在るのみが在るような 美しき曼荼羅が この世を覆い潰しているのだろうか なんてちっぽけな なんて取るに足らない この痛み 百年たてば石ころ以下の この痛み 月は私を知りもしない 月は私を知らないということの その なんという軽やかさ 百年のち千年のち されこうべは嗤うだろう 白く乾いた声をたてて かさこそ かさこそ ころころ ころころ やがてそのひそかな声も 風に吹かれてさざれとなる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お久しぶりです。 これを書いたのは3年前。これを書いたのは2年前。なんだか状況はどんどん悪くなっています。 明日こそ辞めると言おう、そういうときに限って緊急手術が続いて息つく暇もなく、気がつけば辞表の日付が・・・(笑 私を含めメンバーが次々と体調を崩し、「過労死」などという机上の言葉ではない自分の死が、おぼろげながらかなり現実味をもって身に迫ったとき、「ここで死ぬのは悔しいだろうか」と自分自身の胸に問いました。 ところがどっこい、ぜんぜん悔しくないんですね(笑)。 ことにもっと手術がしたかったとか、もっと手術が上手になりたかったとか、もっと患者さんの役に立ちたかったとか、あるいはもっと出世したかったとか、仕事についての悔しさが、心の奥底まで浚ってみても全く見当たらないことに我ながら少々唖然といたしました。 なあんだ。 そっか。 今の私はそんな突き抜けた気持ちです。
たらい回す、とはよく言ったものだ。 結果としてたらい回したことになったとしても その時点で安全を保障できないのであれば 断るのは良心なのだ。 医師が疲労困憊しており すぐに使える手術室が準備できず ベッドが満杯で救急室の片隅に患者を待たせることしかできないならば きちんと断るべきなのだ。 「10箇所以上の病院に断られ」そんな都会のニュースを聞くたび うらやましく思うのは我が県の医師だけではあるまい。 うちで断ったら後がない、そんな地方の病院では 「安全が保障できないなら断る」そんな当たり前の良心さえ許されてはいない。 良心なんてものは、余裕があればこそのものなのだ。 患者を受け入れずに死なせても、受け入れて死なせても 待ち受けているのは罵りでしかない。 自分の後に10も病院があるのならば、誰が好き好んで受けるものか。 うちでは患者を断らない。どうぞお送りください、以外のどんな答えも持っていない。 人手がなければ研修医相手にでも手術はするし、手術室が空いていなければ救急部ででも胸を開ける。 良心なんてとっくになくしているのだ。 それでも、救急車の中で見捨てられたと思いつつ死ぬよりは、どんづまりの野戦病院で鬼の手にかかって死ぬ方がましじゃないかと、思う鬼のあたしがいる。 ::****************************:: おひさしぶりです。 疲労困憊しております。 感情のコントロールがきかず、ただひとり歩いているだけで涙が止まりません。 この地域ではまともに緊急を受け入れる病院はほとんどなくなりました。 もうどのくらい働いているのか、どのくらい家に帰っていないのか、どのくらい寝ていないのか自分では分かりません。 救いは、私がどのくらい働いているのか、どのくらい家に帰っていないのか、どのくらい寝ていないのか、同僚がきちんと知っていてくれることです。 ちょうど、彼らがどのくらい働いているのか、彼ら自身が知らずとも私がちゃんと知っているように。 そうやってかばいあい、助け合い、一番働いていないのは自分なのだ、申し訳ない、そう思うことで、 みんなまとめて過労死に向かっていくのねっ (怒)
「先生がさ、手術をすればまた山に行けるよって、なぁ。 ほんとに行けるようになるとはおもわなんだ。ほれ。」 外来の患者さんが背負ったリックからごそごそと取り出して下さったのは なんて立派なうど、ミョウガの芽、イヌドウマ。 「今日外来だからと思って、朝から裏山に行ってきただよ。」 退院したら先生においしいうどを食べさせてやるで、という、患者にしてみれば夢のような、医師にしてみれば勇気を持たせるための方便のような約束は、確かに果たされたのだった。 2時間待ちが当たり前の大学病院の外来。 10時に診察を受けるには8時に受付を通らなくっちゃならない。 町へ下るバス停に並んだのはきっとそれより1時間も前。 朝露を踏み分け、寝ぼけ眼の山の獣を驚かし、山の恵みを摘んで回る一歩一歩。 昇ったばかりの太陽は、まだ冷たい山の気にかじかむ曲がった指をほんのりと温めたろうか。 入院中枕元に飾っていた写真のポチは、嬉しそうにしっぽを振ってお供したのだろうか。 「この歳でなぁ、おっかないで」と尻込みする彼女を説き伏せ手術に向わせた、孫娘ほどの医師に、うどを食べさせようと張り切る彼女を、いえの若い人は困ったもんだと笑ったろうか。 日に数本しかないバスの時間を気にして、「まったくばあちゃんは支度が遅いで」と苛苛したのではないだろうか。 新聞で丁寧に包んだどっしりと重いそれを背負って朝靄の中、しゃんとバスを待つ彼女に、村の人はなんと声をかけたろうか。 5月も終わり。 夏が、くる。 ![]() 喉ごしのよい純米酒を ガラスのお猪口でいただく。 鯛の干物 素麺 うどとイヌドウマの天婦羅 冷奴 ![]()
心臓血管領域でどうしてもなくてはならない薬、強心薬?利尿剤?降圧剤?もちろんどれも大切ですが、ワーファリン(抗凝固薬)は特に外科医にとっても重要な薬です。 これは血液の凝固機能を抑える薬で、血液の固まりやすさが不都合な患者さん(人工弁が入っていたり(注1)、不整脈があったりして(注2)、普通の方よりも血液が固まり易い状態にある方に処方されます。(注3) この薬、面倒なことに、食べ物の影響をとても受け易いのです。というのも、凝固機能に重要な役割を果たしているビタミンKの作用をブロックするというのがこの薬の主作用で、このビタミンKは食べ物の中に含まれているからです。ビタミンKを多く含む食事を取れば薬の効きは悪くなります。 食べ物、といったってそんなに珍しい食品じゃありません。 青菜、ブロッコリー、若布・・・などなど野菜を中心としてほとんどの食品に含まれているといってもいいのです。これらのもの全て食べるなとか厳密に一定の量を食べろ、というわけにはいきませんし、さらには腸内細菌の影響もうけますので、薬の効き具合を一定に保つためには、その時々に合わせ薬の内服量の方を加減しなくてはなりません。つまり食事制限しないかわりに(注4)薬の量のほうを調節していくわけです。 この薬の効き具合は血液検査でわかりますので、この薬を飲んでいる患者さんは数週間~数ヶ月に一度病院で血液検査をし薬の量を調節しなくてはなりません。 心臓外科の外来患者さんの何分の一かはこの薬の調節を主目的として通っていることになります。 さて春。 仕事仕事で病院に篭りきりで山歩きなどできるはずもないばかりか、季節の移り変わりすら見逃してしまいがちな私たちですが、いっせいに芽吹いた新緑の山々の様子は行かなくたって手に取るようにわかります。わさわさと一斉に背伸びをする新芽のように、外来患者さんの検査値が揃いも揃って上がる(=薬の利きが悪くなる)のですもの。 「○○さん、今日の数値上がってますねぇ。なにおいしいもの食べたの?」 「ありゃ、ばれたかね」 「で、何でしたっけ?この季節。」 「たらの芽とこごみだあね」 「食べたっていいけれど、そんなにたくさん食べたの?」 「まぁずえんらく採りすぎたもんでさ。」 「じゃあ今日からちょっと薬増やしますね。」 「いんにゃ、もう時期もおわりだで。」 たらの芽とこごみが終わっても、次はわらびが始まるでしょうがっ! ![]() 【キャベツと豚肉のポン酢和え】 【うどの皮のきんぴら】 うどの食べ方は色々あるけれど、葉の天婦羅、皮のきんぴら、茎のお刺身に勝るものはないと思う。特に皮のこれは牛蒡、れんこんと肩を並べて、この調理法と一分の隙なく完璧に寄り添う。 【ご飯】 【豆腐と長ネギの味噌汁】 【春の芽の素揚げ】 天婦羅にするつもりが、家に帰ってから小麦粉の切れていることに気がついた。 天婦羅のような品はないけれど、お気に入りの椀に素揚げしたいろいろをがさごそと放り込んでみた。 抱えた紙袋に手を突っ込んで、これがあったあれはまだあるかしらんと駄菓子を探す楽しみのように。―こごみ、たらの芽、うど、アスパラ 注
言葉を紡ぐことを忘れないこと。 思考が言葉によって作られるものならば この苛立ちも この悔しさも この恐怖も このむなしさも 吐き気を催すようなこの日々も 時に投げ捨てたい衝動に駆られるこの私の存在自体も 言葉の外に出るものではないはず。 思考は肉体を超えうるだろう。 意志は感情を越えうるだろう。 自分を騙すことなどたやすいはず。 全ては舞台の上のことなれば。
明日は3月31日。 大学病院の医師がざっくり解雇される日です。 大学病院に勤めるほとんどの医師は医員という身分の日々雇用職員であり 常勤の医師は、助手、講師、助教授、教授といったほんの一握りであることは意外と知られておりません。 (助手、講師、助教授、教授にしたって、そのほとんどは医学部(文科省管轄)から給料をもらっているのであって、大学病院(厚生労働省管轄)からもらっているわけではありませんけれど。) 実際に手術をし外来で患者を診、病棟で指示を出している医師の多くは日々雇用職員です。 場合によっては大学院生という無給のボランティアであることもありますけど。 大学病院ではこれら日々雇用職員を年に一度全員強制解雇することによって、勤続一年以上になることを防いでいます。 (勤続一年以上を出さないことによるメリット・・・よく知らないのだけど、年次有給休暇を与えなくてすむ、とかかしら?でもそんなものあったってとる筈ないじゃない!正職員の助手や講師だってとっていないのだから。) 大学病院を支える主力の医師らは3月30日をもって解雇され、4月1日に新規採用されますので、3月31日はみんな無職。 もちろんそんなのは書類の上のことだけで、本気で休んでしまったら病院が回りませんので、その他の364日となんらかわることなく勤務しているのですけどね。 (ちなみに履歴書には当然この一日のことは書きません。同じ職場に雇用、退職の繰り返しで何行あったって足りやしませんから。) ただ書類上医員が働いていた証拠が残るとまずいので、この日の指示サインはすべて常勤医のもの。普段病棟の業務などしたことのない助教授が、なぜかこの日だけ病棟の点滴指示を出していたりするわけです。(もちろん本当にだせるはずもないからサインだけ拝借。) この日に針刺し事故なんかした日には労災にもならないのだからしゃれにならない。 処置などして医療事故を起こして書類上名前がでるようなことになると困るから、この日はそういうのはなし・・・にしたい。 心ある科は手術なんかも控えますから、一年で一番静かな一日ともいえましょう。 それでも日常業務は変わらずあるわけですから、この日はいるはずのない幽霊職員の手によって病院が運営されるわけです。 こういう大学病院のヘンな風習の違法性について、文句とか疑問とか出て然りというのは普通の社会の常識。医療の常識は一般社会の常識とは違います。 そもそもこの医員医師、週7日働いているのに実際給料がもらえるのは週4日のみ。 一日の労働時間はどう少なく見積もったって12時間は越えているのに計算されるのは8時間。 (時給1000―1500円x8時間/日 x 16日/月 という給料計算になります。) 7日のうちの空白の3日、24時間のうちの空白の4時間を気にしていないのだから、一年に一度の空白の一日くらいどうだっていうのでしょう! 一日の空白の違法性を言うならば、そもそも勤務形態そのものが違法なのだし、それを言い始めたら、雇い主たる病院ではなく医療制度そのものの矛盾にまで言及しなけりゃなりません。 文句を言うなら行政に言ってくれというのが病院事務の返事だろうし、さらにびっくり、人のいい我々の頭の中では、行政→国民→患者さん→目の前の患者さんというすり替えがなぜか起こって、空白の時間は雇い主に搾取されたのではなく目の前の患者さんに捧げられたことになってしまうのです。 搾取なら悔しいけれど、目の前の気の毒な人に捧げるのなら本望と、むしろ喜び勇んで空白の時間を勤務してきたおめでたさ。 これをおめでたいことだとわざわざ言うようになったのは、べつにいきなり権利意識に目覚めたからじゃない。 行政と国民はイコールじゃないし、患者さんになる人は国民の一握りに過ぎないし、ましてや「患者さん」という幻想の集団と目の前のかけがえのない患者さん一人とは別物だと知ったからなのだし、さらに言えば、自分達のやっていることが捧げるなどという美しい言葉で表わされるような行為ではなく、契約関係に基づいた純然たる「労働」なのだとやっと気がついてきたからなのでしょう。(気がついた、というと語弊があるかもしれません。教えてもらったのです。社会から。多くの判例やマスコミによる批判を通じて。) 3月31日。 新しく始まる春を迎え世間が一層華やぐ時。 毎年めぐり来るこの日、我々は、自分がいかに取るに足らない使い捨ての歯車であるかを実感し、だからこその意地を捧げるという行為に昇華させてきました。 このごまかしがいつまで持つのか、私には分かりません。 私自身もう自分を騙すことが難しくなってきていますし、自分の後輩を美しい言葉で騙すことはもうしないつもりです。 春一番が砂埃を巻き上げる美しいこの日、この日を搾取の日として記憶しましょう。 労働としての医療を考え、労働者としての医師の権利を思い起こす日としましょう。 さて3月31日が土曜日となった今年。 当科ではせめてもの思いやり(!)で医員の出勤は停止しました。 (建前ではなく本当にお休み) 明日緊急手術が来ない事を祈るばかりです。 追記:大学によってはこの空白の一日を停止しはじめているところもあるようです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中原医師の自死をめぐり、病院側の安全配慮義務違反に対する損害賠償訴訟は労災訴訟と逆の判断となりました。 「宿直中に仮眠できないほど患者は来ず、日程の割り振りにも一定の余裕があった。業務が原因でうつ病を発症する危険がある状態だったとはいえない」とのこと。 一月でいいから自分でやってみてから判断して欲しいと思ってしまいますが、それは素人の言うことなのでしょう。 法曹の世界では実際にどうであったかではなく、どう証明するかが大切なのでしょうね。 指示書に自分のサインをしない、などして空白の時間のアリバイ作りに自ら協力している我々なんぞ愚の骨頂であります。
入院なさる患者様へ 入院療養計画書 個人情報保護に関する同意書 感染症検査同意書 アレルギーに関する問診書 輸血同意書 血液製剤使用同意書 手術処置承諾書 身体抑制に関する同意書 データベース登録同意書 人工臓器使用登録同意書 退院なさる患者様へ 普通の手術でルーチンに医師が患者さんに説明して手渡ししなくちゃいけない書類は(病院によって多少違いはあろうが)これだけある。(本当はもっとあるかもしれない。どうせ忘れても実害のないものばかりだろうし、多すぎて把握できないし、全部こなすなんて無理だから○○委員会やら××課から指摘があるまで放置。) さらに造影CTをとれば造影剤使用同意書、自己血採取をすれば自己血採取同意書、中心静脈カテーテルを入れれば中心静脈カテーテル同意書、一月以上入院すれば退院療養計画書。 さらに身体障害者手帳申請、更生医療医療申請、各種生命保険診断書はひとりあたり1通から多ければ4、5通。紹介医とかかりつけ医にそれぞれ入院時と退院時に診療情報提供書。 院内書類まで入れれば、手術申し込み書、ICU入室依頼、麻酔依頼、入院時サマリー、退院時サマリー、個室使用が必要なら個室使用申請書、ご家族の付き添いを希望されるなら付き添い申請書。 ひとり手術するだけでこれだけの書類仕事が発生し、9時から17時を勤務時間とすれば勤務時間は手術をしているわけだから、これらの書類仕事はすべて時間外の仕事である。もちろん時間外手当はつかないからただ働きだ。 大抵は夜か土日にいっきに片付ける。これをやらないと手術にならないわけなのだけど、本来の仕事を診察、処置、手術とすればこれらは仕事以前の仕事、pre仕事と位置づけられる。仕事をするための準備(営業マンが営業に行く前にネクタイをしめて歯を磨く、とかにあたるのか?)というわけで、準備なのだから勤務時間中に行うわけにはいかないのだろう。(今ではそんなことはないと思うが、昔は昼間にサマリーや診断書など書いていればサボっているとみなされたものだ) 実際勤務時間中にやりたくたってこれを行う時間の隙間はない。 だが同じ事を、書類仕事専門のクラークさんが行えば、勤務時間中に堂々と行えるまさに「仕事」である。職種によって同じことが仕事になったりならなかったりするのは不思議である。分業化先進国アメリカなんかでは、「仕事になる(つまりお金になる)」方へ方へと業務の移行が進んだのだろうし、滅私奉公の日本ではただで使える労働力の方へ業務を押しつけている、というだけのことだろう。(本当に「ただ」なのかどうか、医師不足のしわ寄せがどこに行っているかを考えれば分かることであるが。) なんといっても日本の勤務医は安い。叩けば叩くほど労働力を吐き出す打ち出の小槌だ。労働基準法からも労働組合からも見て見ぬふりをされているし、疲れてきたら職業倫理という鞭で少し叩いてやればよい。 もちろん、これを必要な医師の仕事だとする口実は別にもある。「責任の所在」である。 たかが書類、ではない。書類の不備は医療行為そのものの不備とみなされるし、そんな重要な仕事に落ち度があっては「責任がとれない」、という。書類一枚責任をもって書けないような人間を、人様の生命に関わる現場で雇っていること自体どうかと思うが、当然問題となるのはできるか、できないかではなく、「責任の所在の明確化」なのだ。 「責任をもって」とは美しい言葉だし、「あんた医者なんだからさ、主治医なんだからさ」と言われれば、パブロフのイヌのように脊髄反射で仕事を引き受けるのが医師の職業倫理とされているから、訴訟の急増、刑事責任を問われる事例の増加で、医師の書類仕事は増える一方だ。 週5日一日中手術をしているのが優秀な外科医であるならば、いったいこれらの書類はいつ処理しろというのだろう? これを書いている日曜日の午後、病棟ナースから電話がかかる。「○○さん、いくら注意してもナースコールを押さずにトイレまで歩いちゃうんです。」「だってもう歩けるでしょう?」「ええ、でももしころぶと困りますから、ご家族に転倒骨折のリスクを説明しておいてください。」やれやれ、また書類が一枚だ。「転倒骨折のリスクについて話しました」という書類を書いてサインをしたところで、骨折を防げるわけでも骨折してもいいわけでもないんだけどなあ。 どこからどこまでが医師の責任か、についてはまた次回。 p.s. ちなみに・・・・ 個人情報保護に関する同意書: ご家族(など第3者)に病状を説明してもいいですよっていう同意書 感染症検査同意書: 感染症の検査をしてもいいですよっていう同意書。他の検査には同意はいらないのか? 身体抑制に関する同意書: あばれたら縛ることもありますという説明を聞きましたという同意 データベース登録同意書: 自分のデータを日本全体で行っている学会のデータとして登録していいという同意
例えば古いアルバムを家族で覗き込み、あの時はこうだった、この時はこうだったと話し合うような団欒のとき。あるいはまたこいつはいったいどうしているだろうと独りしみじみとアルバムをめくる夜更け。 いずれにせよ、過去に返るひとときというのは人間だけに許された優しい贅沢なのだと思う。 手術が終わると、術者は手術記録というものを記載する。 それぞれの病院によって、あるいは術者それぞれによって形式に違いはあるのだが、大抵初めの2,3行で手術に至った簡単な経緯と、それに引き続き、どうやって臓器に到達したか(胸骨正中切開、とかね)、開けた瞬間目に入った臓器の様子はどうだったか(癒着があった、とか、腹水があったとか、石灰化があったとか)、病変はどうだったのか、それからどういう判断で何をしたのか、術中の血圧やらなにやらの変動はどうだったのか、どうやって傷を閉じたのか(この情報はもう一度手術をするときに有用)、なんてことがA4一枚につらつらと書いてある。うちの書式だともう一枚の上半分に、手術日、病名、術式、手術時間、人工心肺時間、輸血の有無などなど、下半分に手術の絵を描くようになっている。 手術一回につきひとつの記録を簡単な術前サマリーなんかと組にして日付順にファイルしたのが何年分も何年分も、たぶんどこの外科チームにおいても宝物のように大切に保管されているはずだ。 手術記録はその外科チームの歴史であると同時に、外科医個人の歴史でもある。どこに観光にいっても写真などめったに撮らないものぐさな私であるから成人してからのアルバムの数などたかが知れている。引越しの度に重みを増すダンボールは写真ではなくこの手術記録である。(自分で行った手術の記録は専門医取得の申請などにも必要。もちろんこれは個人情報を含むので病院からは持ちださない。) 手術記録のファイルはその外科チームの成績を論文にしたりするのにも使われるし、めったにない珍しい手術や初めて行う手術の前などに他の術者がこれまでどうやってきたのかを振り返って予習するのにも使う。 でもそれ以外にも私達は、このファイルをそれこそ古いアルバムをめくるように、しょっちゅう手に取る。当直の夜のひと時、あるいは手術の無い日ののんびりとした昼休み、あるいは日曜日、午前中のそれぞれの仕事が終わりコーヒー一杯もらったら帰ろうとなんとはなしに立ち寄った医局で、気が向いた一冊を取り出してはページを繰る。 覚えてる?このとき。どうしたらよいか悩んだよねぇ。結局あれで正解だったけどさ、試練だったよねぇ。 あぁ、この手術。大変だったねぇ。この最中にさ、あいつの二番目の子供が生まれてたんだったよね。 ああ、懐かしい。○○さん。どうしてるかなあ。ここのうちのお嫁さん、たいした人だった。 あ、××さん!先日転院先の先生に聞いたら元気に退院したって。おうちに帰れたみたい。がんばったねぇ。 一手術一手術に、患者さん一人一人に忘れられぬ思い出があり、話は尽きない。 無我夢中で過ぎていく一日一日の真っ只中では言葉にもせずに流してしまった事々を、掘り起こして再共有することで、経験はあらゆる角度から何度でも味わいつくされ、次に迎えるであろう試練の肥料となる。 私達はこうして、何度でも何度でも過去に返っていく。もう二度と巻き返されぬ過ぎし時間の、苦さを、重みを分かち合い、今こうしてここにいることのかけがえのなさをしみじみ噛み締めるのだ。 ■□■□■□■□■【ブログすごろくテンプレ】■□■□■□■□■ 【ルール】 投稿した記事のURLの下一桁をサイコロの目として進めていきます。 前回の記事にTBして進めて行って下さい。 100マスのすごろく盤を何日でクリア出来るか?! 企画終了条件は 100マスクリア出来るか、自分自身でドロップアウトした時です。 詳しい企画内容や参加表明はこちらの記事から 随時参加OKです。 ※誰でも参加出来るようにこのテンプレを記事の最後にコピペして下さい。 企画元 毎日が送りバント http://earll73.exblog.jp/ ■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ < 前のページ次のページ >
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