携帯電話をなくした。
明日は朝から外勤だから 今晩たとえ緊急手術があっても 呼び出される心配はまずないので 携帯電話の電話機能は 今晩のところは いらない。
困ったのは 時計機能だ。
失くしてみて 気づいたけど
うちには 時を刻むものは 携帯電話しかなかったのだ。
壁掛け時計は始めから置いていない。
腕時計は4ヶ月ほど前に 失くしたっきり。
ラジカセやコンポのような 時計表示のあるものもない。
テレビもないし 時報を聞こうにも 電話もない。
ノートパソコンは 職場に置き去りになっている。
夕食を食べ終わったものの もう少し呑んでいいやら 寝るべきなのかすら わからない。
外は 夕闇。
途切れること無い虫の声が 水槽の浄水装置のぶーんという音とともに 時を平坦に均している。
ここ2日続いた 当直のせいで 眠気などといった体内時計は あてにならない。
こんな日は さっさと寝るに限るのだろうが
明日の朝 目を覚ました私を包むであろう 屈託のないのっぺりとした朝日を 思うと
目をつむる気にはなれない。
時刻 ということ。
時への刻印。 時の去勢。 刻一刻と 時に 傷を刻み込むようにして 我々は生きている。
そして 外界から遮断されたこの部屋の中で 時は去勢を免れ その圧倒的密度でもって私を盲にする。
ここは世界の穴だ と思う。
あるいは 井戸?
私は 時の流れの途中に 罠のようにぽっかりと口を開けている 古井戸に落ちたのだ。
井戸の底から 見上げる空には こんなにもゆったりと 雲が流れている。
井戸の底にいて 私はこんなにも無力で こんなにも安らかで
でも そのあまりの静けさに 身の置き所がない。
考えた末 世界の穴から出て 病院へ向かうことにした。
いずれにせよ 明日は月曜日。
時計が微分する時の中で 目覚めなくてはならないのだ。