自慢じゃないが私の足は汚い。
自慢じゃないが、と書いておいて、やっぱりこれは自慢である。
若い(若くもないが)女の足が汚いのどこが自慢かと問われれば、その頑丈さ頑固さ頑なさにおいて自慢なのである。
今の子供は真っ白なソックスに紐のじゃらじゃらついた底の厚い過保護な靴でもって伸びよう広がろうとする育ち盛りの足を窮屈に締め上げているが、昔の子供はズックであった。元は白くて硬かったものを泥水で数回洗ってかかとを踏み潰しぼろ雑巾のように柔らかくなったのをつま先でつっかけて川も渡ったし木にも登った。むき出しのかかとは大抵土を踏んでいたし、遊びに熱が入ればつま先に引っ掛けたそれさえもうっとうしくなり、木の枝、河原の大石の上に脱ぎ捨てて裸足で遊んだ。遊びながらあっちの大木こっちの洞窟、川なら上流へ上流へと動くから、脱ぎ捨てたぼろ雑巾などどこで見失ったか、片足ばかりになったそれをぶら下げて、長い日の残りをひきずってほの暖かいアスファルトをぺたぺた踏んでの裸足の帰途は当たり前であった。
私はことのほか裸足を好んだ。男の子たちほど藪に分け入らなかったこともあるが、家の前でのゴムとび、回旋、だるまさんころんだ、ぬかぬかの泥を踏んで田んぼのタニシ取り、沢を伝っての蟹取り、木の上の基地ごっこ、「あたしもうくついらない」と脱ぎ捨てるのはいつも私が先頭だった。
母も祖母も子供の足を汚がり疎んじた。友達がうちに遊びにくることを嫌がりはしなかったが、うちに入る前に子供達は雑巾で足を拭くことを命じられた。父の大きなつっかけを履いて庭の蛇口で足をじゃぶじゃぶ洗い、縁側に並んで腰をかけて足を拭いた。それでも子供達の足の指の間には黒い泥がこびりついており、友達が帰ったあと私は縁側の雑巾がけを申し付けられた。
人様のおうちにお邪魔する時には、ちゃんと足を拭いてからあがるのよ、そう言っていた母も、まさか我が娘の足がどこのやんちゃよりも汚いとは思いもよらなかったことだろう。
私は生まれついての面倒くさがりであったから、途中で脱ぎ捨てたくつを持って帰るくらいなら、初めから履かずに出かけるほうを選んだ。いつだったか自宅のある団地を遠く離れた街の歩道を裸足でぺたぺた歩いていく私を見かけた近所のおばさんが気の毒がって車に乗せて連れ帰ってくれたことがあった。くつも買ってやれないのかと思われたわけではないが、不調法な娘に母は赤面し、家の前の道路より遠くに行く際にはくつを「持って」行くことを厳命された。
裸足のやんちゃ坊達もいつしか歳を経て、ぬかるんだ道を歩く裸足の快感よりも靴を通じて染みこんで来る泥水の冷たさに顔をしかめる方が大人だと思うようになり、それでも私はまだ裸足であった。夏のアスファルトは火傷するほど熱かったし、マンホールの蓋など踏みようものなら本当に火傷をした。ガラスも毛虫もイヌの糞も踏み、道路を端によけた子供の脇をぎりぎりに通る車のタイヤに足を轢かれる通過儀礼もあった。
私の足の裏は友の誰よりも頑丈で固く、そして繊細になった。熱い、痛い、汚いにめげることはなかったし、いざとなれば「ここから先は私の足じゃない」術(注)だって使いこなせた。靴の底のようになった私の足で、私はどこまでもどこまでも歩いていけるような気がしていた。
周囲の冷たい視線と母の赤面にもめげず私はかなり大きくなるまで裸足の少女であったのだが、母の教えに従って人様のお宅にあがるときにはきちんと足を拭いた。そのしぐさは私がかなり大きくなって、裸足でひょこひょこと出歩かなくなっても続いた。実際拭かぬわけにもいかなかったのだ。私は(今でも)好んで薄く小さな便所サンダルを愛用し、私の裸足の足先はいつだって泥にまみれているのだから。このサンダルで私はどこへでも行く。買い物にも出勤にも、東京にもラオスにもロサンゼルスにも行った。(東京とロサンゼルスに行ったときは学会とレストラン用にハイヒールも持参した。)
この足はどこへでも裸足で歩いていき、痛さも辛さも熱さも寒さも踏み越え、汚れほうず汚れている。それが私の歩き方でありそれを一歩も譲る気はないのだけど、人様のお宅に伺う時には腰をかがめて足を拭くのだ。
人様のお宅と称して、あがりまちで戸惑いそれからおもむろに手拭で足裏を拭く様は、家に出入りしていた植木屋さんや大工さんがいくらすすめても座敷に上がらず、縁側に腰をかけてお茶をすすっていた、その粋な姿に通じ、私はそういう姿勢を幼心に美しいと思った。それはまた「こんな支度ですので」と玄関ではなく勝手口から声をかけるような、あるいはまたいきなり中を覗き込まぬように体を斜めに構えて扉が開くのを待つような、そういう姿勢とも通じると信じ、それはそのまま私の生きる姿勢となった。
辛いも痛いも汚いも、裸足で直に踏んでいくこと、直に触って感じること。自らの足の汚れを厭わないこと、土に近い場所で生きていくこと。自分に対してはできうるかぎりずさんな扱いをすること、酷使を通じて感じる世界を実感とすること。だが人様の前では屈んで足を拭くこと。足を拭く雑巾を持ち歩く事を忘れぬこと。
私は未だに裸足の少女のままである。
(注)
「ここから先は私の足じゃない」術あるいは「ここから先は私の手じゃない」術について
例えばものすごく尖った石の上を歩かなくてはならぬ時、あるいは、ものすごく汚いものを触らなければならない時に使う術。足首から先、手首から先を自分の身体ではなく単なる道具(靴とか義足とか手袋とかマジックハンドとか)とみなすことで、その部分の感覚と意識を一時的に自分から切り離すこと。足についてはともかく、手については素手で咄嗟に汚物を触らねばならぬ仕事の時や掃除の時に便利である。