私の夢は分かり易い。
寝ても覚めても、とはいうが、確かに夢の中まで現実の思考が連続しそれが時間上夢として区切られるのにすぎない。
明日の手術のシュミレーションをしながら眠れば、夢の中でもそのシュミレーションは続行され、あそこがもしこんなだったらどう縫おうかと悩みつつ眠れば、いくつかのパターンの縫いあがりを夢にみる。高校生のころは数学の問題をそのまま夢で解き続け、はっと目覚めてメモをとりまた眠るという有様だった。軌道を外れて荒唐無稽な回答につながることもままありはするが、数学と違って手術などその前提条件、取りうるパターンなど考えなくとも体に染み付いているのだから、思考が箍を外れて暴走することは通常ない。
怖いのはあれをしなきゃと思いつつ眠り、夢の中でそれを実行し続けている場合。病棟に患者を見に行かなきゃと思いつつ、ちょっとだけ横になってから、なんて甘い選択をした日には、夢の中で眠い目をこすりながら病棟に行き診察をして処方までして安心して惰眠をむさぼるのだから、先生いつになったら来てくれるんですかなんていう看護師さんの電話でがばと跳ね起きる、なんてことになる。(もちろんもっと怖いのは、実際に指示が出てしまっているときだ。眠りながらでも指示は出せるのだから電話というのは恐ろしい利器だ。ただこの場合指示を出した本人は覚えていないだけで、きちんと理にかなった内容を寝ているとは思えないしっかりした声でしゃべっているらしいから、夢の中で指示を出したというより、起きて出した指示をもう一度寝ることによって忘れてしまった、というほうが妥当だろう。またそうでなくてはなるまい。)
荒唐無稽な夢は夢の中でそうと分かる。何者かに追われていても、これは私の頭の中の出来事なのだから、次のシナリオを作るのは私なのだと知っているし、だから必死に逃げ惑いながらも間違ってもこのまま追いつかれて捕まってしまうなんていう悪しき思考をせぬように、自分の精神を叱咤激励し、首尾よく逃げおおせたはずの未来へのワープを試みる。とはいえそこは夢、望む結末へのワープには必ず制限がつく。例えば一緒に逃げている友人を置き去りにしなければならぬとか、代わりに大事なものを犠牲にしなくてはならぬとか、そういった類の制限がつく。制限なく好きな結末へもっていけるのなら、夢でもなんでもなく想像、妄想といった類に分類されるのだろうから、やはり眠りという他者に半分支配された時間帯での出来事には、それ相応の不自由もつくのだろう。夢の中での私はこれは夢だと分かっているのだから、もちろん友人を置き去りにしようと大事なものを失くそうと頓着しない。想像の中といえども追いつかれる恐怖は本物で、しかもそれを味わっているのは夢を見ている私一人なのだから、友人には悪いが犠牲になってもらう。大抵夢はそこで覚める。汗をびっしょりかくほどの自己嫌悪が夢を続行させることを許さない。ああやっぱりやってしまった、潜在意識の中では他人などどうでもよいと思っているから、夢だと分かっている夢の中ですら友人を助けることなど思いもよらぬではないか、そういう苦さが目を覚まさせるのだ。とすればこの手の夢の目的は、追われていることではなく、この自己嫌悪であるのかもしれない。この自己嫌悪を繰り返し繰り返し味わうために、うんざりするほど定期的に私は何者かに追われるのだろうか。
懐かしい人は山と夢に登場するが、現在進行形の恋人が夢に登場したことは一度もない。潜在意識で注意深く避けているのか、案外興味を持っていないのか。別れてほとぼりが冷めた頃には一群の懐かしい人々の一人として当たり前のように登場人物に名を連ねるのだから、現在進行形であることは私の精神にとって何らかの関所となっているのかもしれない。懐かしい人がでてくる夢は安らかである。
言壺さんの
夢の話題にTB。
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