気のせいですよ、あのばかすかさずそう答えやがった。
誰も呼んじゃあいませんよ、お夕飯だってさっき済ませたばかりでしょう、しっかりしてくださいね、認知症、でしたっけ、冗談じゃあありませんからね、あ、まさかおばあさんが呼んでいるなんて、いやですよ、気味が悪い。え?ばあさん死んじゃいない、ぴんぴんしている、ああ、そうでした、今日は老人会の旅行でしたっけね、いつもうるさ・・いえいえ元気がよろしいから一日いないとずいぶん長くいらっしゃらないような気がしましてね、明日には戻られる、まあそうですか、そりゃあずいぶんお早い、もっとごゆっくりなさればよろしいのに、お義母さんもお家に引きこもって小言を言ってらっしゃるよりお友達とお出かけになられた方が楽しいでしょうに、たった一泊じゃあねえ、ゆっくりできやしない、ええ、お義母さんがですよ、せっかくだからゆっくり温泉にでもつかってそのままぽっくりなんてね、うふふ、いやですよ、お義父さん、なんてこと言わせるんです、お義母さんお帰りになるならお茶うけでも明日買ってお待ちしなくちゃあね、さあ忙しい、忙しい、お義父さん御用おすみならお部屋に戻られてくださいね、お台所片付けますから。
・・・なんだあいつは。でかい尻をふって忙しい忙しいと。明日金菓堂の和菓子でも買って茶を飲む口実を早速見つけやがった。ばあさんにこじつけながら、ばあさんの好みなんか聞きゃあしまい。
ああいう俗物には高尚な問いかけなど所詮無理なのだ。あの手の輩には「誰かに呼ばれている」という、この感覚を理解し得ないのだろう。そう、呼ばれていると思うこと、この感覚こそが我々人間を人間たらしめ、ありとあらゆる哲学的思考を生む源泉ではないのだろうか。という意味では奴は人間ですらないのだな、気の毒に、太郎の奴、もともと女の趣味の悪い奴だと思っていたが最後の最後でこともあろうに人間以外を選んじまったってわけか、まあ、女の趣味の悪さにかけちゃあお父さん譲りだよね僕、なんて子供のくせにませた口をあいつがきいていたことを思えば俺も人のことは言えんかったわけだが、それでもまあ、こうして可もなく不可もなく平々凡々と生きているのだから、いったい女を見る目というのは我々男にとってさほど重要なものでもないらしい・・・と、そう、「呼ばれていると思うこと」だ。誰かが自分を呼んでいる、自分を呼んでいるのは誰であるのか、そう問いかけずにすむ人間が・・・そう人間であるならば、いったいどのくらいいるのだろうか。その問いかけのしつこさは「呼ぶ」という行為に付随するものではない。むしろ「呼ぶ」という行為と解離した「呼ばれる」のなかにこそ潜む神秘が我々をこの大きな謎に駆り立てるのだ。「呼ばれる」に付随するこの焦燥感は呼ぶ主の不在故なのだろうか。失われてしまったもの、失われつつあるものたちが、不在の向こうから私を呼ぶ。その声に呼応するように私は誰かを求め、失望し、また誰かを求め、死が訪れるまでさまよい続けるのだ。とすれば太郎が人間ではないものを妻として娶ったことには、この彷徨を誰傷つけず永遠のものとして措定する極めて根源的な意味づけが隠されているのではなかろうか。うむ、あいつも捨てたものではないな、もちろんこのわしもだ。男というのはいったいそういうものではないのか。考えてみれば隣の政さんだって弟の源だっていずれにしても人間を娶ったとはお世辞にも言いがたい。それで結構幸せに盆栽などという哲学行為に精を出せるのだから、そういう意味では、妻ではない誰かに呼ばれていることは感じつつも俺を呼んではいない妻のために日常を費やし、その焦燥のなかで死んでいくことこそ男たる人生なのかもしれぬ。我々が恋に落ち、まるで白昼夢を見ているように見当違いの女を娶り、あるいは追われるように仕事に邁進し何かを成さんと欲するのも、全てはこの何者かの声に促されてのことなのだ。とすれば、何かに「呼ばれている」と感じることのできる存在を男と呼ぶのだろうか。では女はどうだ。あの嫁、電話で言っておった。誰かに呼ばれているような気がするの。アホめ、それこそが妄想じゃ。お前を呼ぶ男はいない。太郎にしたって間違って声をかけたところが顔を見たら間違いだって言うのが気の毒になっちまって子供までつくっちまったようなもんだ。しかしなんだ、何にも呼ばれん、というのはちと気の毒だ。そうさな、嫁は金菓堂の和菓子に呼ばれていることにしてやろう。食われてぇ、食われてぇと金菓堂のショーケースで呼んでおるのだ。あっはっはっは、いい気味だ・・・と振り返って目が合うのはやっぱりお前か。どうも今日はいつにもまして呼ばれている感が強かったのはお前のせいか。生きとし生けるもの全て、いやのみならず石であれ風であれ万物意志を持ち我々に語りかけているのだ、その声に耳を澄ませ、とはよくぞ言ったもの。饅頭であれ餅であれ食われたい奴がいるのであろう。悪かった。どうせ食われて失せる身なら天下を取ったような顔をして頬ばる奴に食われたいに違いない。囲碁の帰り政さんに女衆には内緒だでねと懐に押し込まれたものではあるが、そこまで声なき声を上げるのであれば仕方ないその薄暗い戸棚から出して嫁にくれてやらんでもない。
まあ、お義父さんこれ金菓堂の桜餅じゃあありませんか。まあ、まあ、まあ、まあ、お久しぶりですわね、前に頂いたのはいつだったかしら、去年の春はほらお義母さんが入院なさっていたからなんだか悪いような気がして頂けませんでしたものね、まあ、まあ、まあ、まあ、なんていい匂い、やっぱり春ですわね、春はこれじゃあなくっちゃね、お義父さん、なんだか呼ばれているような気がするって春に呼ばれているんですよ、きっと、まあなんていいお色、ほんのり桃色でやっぱりあそこのお菓子はお上品ですね、スーパーの桜餅じゃあこうはいかないわ、桜餅、いただきますわね、お義父さん、やっぱり春ですわねえ。
何たる喜びようだ、品のない、といえば身も蓋もないが、桜餅にしてみればああいう輩に食われたいのに違いない、それにしても春が呼ぶとは粋なことを言う、折角の思いつきも桜餅に触発されてじゃあその深さもたかがしれてはおるが、うむ、春が呼ぶか、この辺りじゃあ見かけもしないが、落ち枯れたススキの葉を押しのけてこっそり芽を出しているフキノトウやらそろそろと身を起こすタンポポやら緩んできた水から立ち上がるセリやら、昔はよく食べたものだがあの嫁じゃあ見たこともないに違いない、見たこともないからその味も知らぬ、気の毒なことだ、そうか、強く吹き付ける春一番の運ぶ砂埃に目を細め背を丸めていつもの道を歩きながら、心躍るよりもむしろどこか寂しい気がするのは、やはり誰かに呼ばれている心持ちがするからなのだ、だが呼んでいるのは春ではない、冬だ、失われつつある鋭い季節、去らんとする凍れる季節がいとおしくてその声を聞きたくて、だからこんなにも春は切なく人恋しいのだ、だから春、我々を呼ぶのは死者の声だ、死者が墓の下からわらわらと手を伸ばし、成し得なかったもの声にできなかったものを呼ぶ、その声があて先のない声となって我々に語りかけるのだ、だから桜はこんなにも黄泉にふさわしい、そして我々もまた去りゆくものであることには相違ない、そうこの世を次の季節に譲り渡し去りゆく身ではある、とすると我々もまた声を上げ誰かを呼ばっているのだろうか、後に続くものに言いようのない焦燥感と寂しさをもたらすあの、声にならない声を上げているのだろうか。
・・・だがあの嫁、桜餅を持って来いとは言わんがお茶くらい持ってきてもよさそうなもの、どれ、こればかっかりは声を上げて頼んでみるか・・いやいやそれも面倒だ、茶ぐらい自分で入れるか、どれ。
あらお義父さん、お茶なら今お持ちするところでしたのに、桜餅?ええ、あれはね明日。お義母さんお帰りになったら御一緒にと思って、ちょうど公園の桜が咲きはじめ、ええ5分くらいかしら、お買い物の帰りに見ましたの、桜の下で頂く金菓堂の桜餅、きっととってもおいしいですわよ、春ですわね、お義父さん。
・・・ほう、花見かね・・・フキノトウはどうか知らんが、土筆くらいならあの公園の土手にも生えとる。どれ花見ついでに摘んで帰るかね。おう、佃煮でも天婦羅でも。手はかかるが心配はいらん、ばあさんが懐かしがって喜んでこしらえるさ。
■□■□■□■【トラバでボケましょうテンプレ】■□■□■□■□■
【ルール】
お題の記事に対してトラックバックしてボケて下さい。
審査は1つのお題に対し32トラバつく、もしくはお題投稿から48時間後に
お題を出した人が独断で判断しチャンピオン(大賞)を決めます。
チャンピオンになった人は発表の記事にトラバして次のお題を投稿します。
1つのお題に対しては1人1トラバ(1ネタ)、
同一人物が複数のブログで1つのお題に同時参加するのは不可とします。
企画終了条件は
全10回終了後、もしくは企画者が終了宣言をした時です。
参加条件は特にないのでじゃんじゃんトラバをしてボケまくって下さい。
※誰でも参加出来るようにこのテンプレを記事の最後にコピペして下さい。
企画元 毎日が送りバント http://earll73.exblog.jp/
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第3回TBでボケましょうお題発表!
トラボケ2006、第3回のお題は、
「わたしの名前を呼ぶのは、 だれ?」
相変わらずぼけてませんが・・・・だって、sivaxxxxさんを口説くには、やっぱりコレだもの。
つくしの佃煮 ふきのとうの天婦羅 セリのお浸し・・・喉を鳴らす音が聞こえてよ?
そっちの桜はもう終わりでしょう? こっちはこれからよ、sivaxxxxさんっ。