言葉の訳は難しいにTB。
インフォームド・コンセント informed-consent。
以前は「説明と同意」とか「説明を受けた上での同意」とか訳されていた。
医師がこの言葉を使う時には、患者さんに病状を説明したり、治療方針に同意をもらったりすることを指す。
この言葉は80年代にアメリカから日本に輸入された言葉で、一般的に使われ始めたのはここ10数年のことだ。
それ以前には同じことを「ムンテラ」と呼んでいた。
ムンド・テラピー 【(独)Mund Therapie】(Mund=口;Therapie=治療)の略である。
私が医師になりたての頃は「インフォームド・コンセント」は一般的でなくて、まだ「ムンテラ」が巾を利かせていたのだけど、先進的な一部の先生から半ば強制的に「ムンテラ」から「インフォームド・コンセント、略してアイシー(IC)」への言いかえを諭されたのをよく覚えている。
ムンテラ、つまり口による治療というのではいかにも、口先で患者の意思をコントロールする詐欺師のようなイメージがあるというのがその理由だった。
説明と同意―――。
考えられうる全ての選択肢とそれにかかわる利害の全てを公平に羅列、説明することにより、クライエントが完全に自由な意思で治療方針を選択する場を与えるべきであり、そこには医師側のいかなる意思による影響もあってはならない―――日本古来の医療の根源悪とみなされたパターナリズムから脱却すべく選ばれたこの言葉はだから、自らのあるべき姿を天と地ほどにひっくり返された医師たちのショックを反映してか必要以上に無味乾燥で、契約関係を基礎におく訴訟大国アメリカの殺伐とした雰囲気を日本に持ち込んだ初めの出来事であったのだと思う。
説明と同意―――。
今となっては当たり前のように使っている言葉だが、当時はその白々しさに砂を噛むような思いで「アイシー」と口にしたものだ。
このくらいぱさついた言葉でなければ、我々の身体に脈々と染み付いているパターナリズムを追い出すことはできなかったのであろうが、それがとうとう「納得診療」と訳されるに至って、時代が一巡したとの感を強くした。
同意と納得は全く違う。
「同意を得る」とは言えても、「納得を得る」とは言えない以上「納得診療」と訳される場合の主語は患者自身でしかない。
それ以上に、同意は頭でするものかもしれないが、納得は腹でするものである。
そしてまた、これは私の私見であるが、同意は説明内容に対してするものであろうが、納得は目の前に置かれた現実そのものに対してなされるのではないか。
何の因果かは分からないが、なぜか他でもない自分が、なぜかよりによってその病を得、これまた何かの縁で目の前の人間を主治医にし、選ぶ余地もなく共に闘う同志と定め、その相手がよしとする戦闘法に身を任せ、悔いはすまいと腹を括ること―――納得するとはそういうことではないか。
だから同志たる我々がなすべきなのは、一見公平なデータの羅列ではなく、自らの持ちうる手段と信ずるところを述べることである。
その陳述に公平さが求められるのは、相手に冷静な選択を迫るためではなくむしろ、自分が信用に足る人物であることを示すためである。
我々は現実にたいして公平であろうと真摯に願っている。
だが与えられた情報しか得られない患者にとって完全な公平性はありえないし、渦中にある患者にとって完全な客観性は何も述べていないに等しい。
外来で初診の患者さんに予約時間を無視したたっぷりの時間をとるのは、あるいは手術前の説明に喉が枯れるほどの時間をとるのは、私という人間を品定めしてもらうためだ。
私でよろしいですか?私を同志として迎えてくださいますか?
「承諾書」とは、その問いに対しての承諾であって欲しいと思う。
あれから10年以上経ち「アイシー」がすっかり板につきもはや「ムンテラ」と言うことはないけれど、あえて「ムンド・テラピー」と言うことはある。
辛い選択を迫らねばならぬ時、重い現実を伝えねばならぬ時、落ち込んだ気持ちを奮い立たせ明日に向う力の支えになりたい時、そのときに使われる言葉はやはり「テラピー」でなくてはならないと思うのだ。