鮪は回遊魚である。
秋から冬にかけて、晴れ渡った高い空を北に向かって泳いでいく
大きな鮪の群れは空気がぴんと張ってわずかに湿った匂いのする晴れた日に、少し気をつけて空を見上げていれば、日本中どこででも見かけることができる。
だが鮪は本当は夜の生き物だ。
鮪の黒い背は闇に溶けるから、夜空を渡る群れを目にすることはまれだけれど、実は鮪の移動は主に夜に行われる。
明るい月の晩には、冴え渡ったその光が鮪の背にきらりきらりと反射して、遠くに蒼々とそびえる山の背のすれすれを掠るほど低く泳いでいく群れの存在を知らせることもあるし、あるいはまた、運がよければ塊になった大群が、雲のように一瞬月の光をさえぎり辺りを闇に沈めるから、それと分かることもある。
初夏に白鳥座付近の銀河の溜りで生まれた子鮪は、水瓶座、オリオン座と回るうちに大きくなり、こぐま座で一休みするころにはもう、大人とかわらなくなる。
北極星の向こう側で冬を越した群れはまた、カシオペア座を経て宿営地である白鳥座に向かって旅を始めるのだ。
子供の頃僕は、鮪は月に向かって泳いでいくのだと思っていた。
月には亡くなったおっかさんがいらして、僕はおっかさんのお顔を知らないけれど、おっかさんはきっと僕のことをご覧になっていなさるから、明るい月の晩にはお行儀正しくするものだよって婆が何度も言うものだから、お月様はいつの間にかおっかさんと重なって曇りの日にはおっかさんが泣いているように、晴れた日にはおっかさんが笑っているように思っていたものだ。
鮪たちは月に帰っておっかさんに甘えているのだろうと、だからあんなに一途に月を目指すのだろうと、空を飛べない僕は一人ぼっちで、空を渡る鮪たちを見上げては寂しんでいた。
それは僕が九つか十か、近年減少の一途をたどっていた鮪の、数年ぶりの大繁殖が見られた年で、空の半分を埋め尽くすほどの大群が北に向かって渡っていくのをどこの新聞でも大々的に報じていた。
僕はといえば、連日空を覆う鮪たちのせいでお月様は隠れたきりだし、体の大きな、といってもまだ幼さの残る子鮪たちが母親に寄り添って泳いでいくのを見せ付けられて、頭では分かっているもののやはり面白くはなし、暮れ行く秋の寂しさも手伝っていっそう一人ぼっちのきかん坊であったと思う。
その日も口うるさい婆とけんかして、夕飯なんぞいらないわいと減らず口をたたいて飛び出したものの辺りはもうどっぷりと暮れており、もちろん行くあてとてなくかといって納屋に押し込められる罰が分かっていてすごすご引き返すわけにもいかず、石を蹴り蹴り歩く道はいつの間にやら切なさとも寂しさとも悔しさともつかぬ涙で曇っていた。
きんもくせいの甘い香りがどこからともなく漂ってきて、まるでそれは嗅いだことのないおっかさんの香りのように思えて、たまらなくなった僕はわぁっと叫んで駆け出していた。
遠くで犬が吼えて心臓が躍り息が切れたけれどかまわなかった。
そうして走って走って走って、いつの間にやら、分からなくなった。
気がついたら僕は鮪たちと一緒に空を飛んでいた。
秋も遅い空は身を切るほどに冷たいはずなのに、きんもくせいの甘やかな香りがほんわりと夜風に混じり、襟元から裾へびゅうびゅうと抜けていくのが心がしゃんとするくらいに気持ちよくて、晴れ渡った銀河を僕は両手を広げて飛んでいた。
僕の前にも後ろにも、両脇にも、黒々と光る大きな鮪がお月様の光をその尾びれで力強くはね返しながら悠々と泳いでいた。
つややかなその流線型の体には遠くで瞬く星星が映り、きらきらと光っていた。
郷の山々が眼下に小さく見え、そして雲に隠れて見えなくなった。
もう僕は、見渡す限りの星の海に、泳ぎだしていた。
おっかさんのいなさるお月様を目指して、僕は、鮪の群れに混じってごうごうと泳いでいった。
右手には大きな川が見えた。
ああ あれが天の川だ、と僕は思った。
「川についたら一休みしましょう。」
いつの間にか僕に寄り添うように泳いでいた大きな鮪が言った。
「お月様にはまだまだ遠いの?」
おっかさんに少しでも早く近づきたい僕は、休んでいる暇が惜しいような気がして聞いた。
鮪は僕を跳ね飛ばさないように注意深く近づいてきて、僕の脇にそっと体をつけた。
鮪の体はすべらかでしっとりと湿っていた。
「私たちは月へは行かないわ。」
「お月様を目指しているのじゃあないの。」
「いいえ、お月様はとても遠くて、私たちの重い体では行くことはできないの。私たちが目指すのはあそこよ。」
鮪が指差したその先には、北極星が青く静かに光っていた。
「月のおっかさんに会いに行くのかと思っていたよ。」
僕があんまりがっかりしたふうだったからだろうか、鮪はもう一度僕の手に体をすり寄せると、優しく諭した。
「その時が来たらいつかお会いできるのだし、その時が来るまでは一人で泳がなくてはいけないわ。星から星へと。お月様は、いつでもあなたの頭上にいなさるわ。」
おっかさんにお会いできるその時というのはいったいいつなんだろう、僕はそのときまで待てるのだろうか。
そんなことを僕はぼんやりと思って、先を泳ぐ鮪たちの背を静かに照らす月の光を、眺めていたのだった。
ふと気がつくと、僕は家の前の小路に立っていて、見上げた空には大きな満月が浮かんでいた。
満々と微笑む月の前を、数匹の鮪がゆっくりと横切っていくところだった。
白い月に鮪の姿がくっきりと浮かび、そしてまた一匹二匹と闇に溶けていく。
群れの最後尾の一匹が月の真ん中でぱしゃりと大きく跳ね、そして闇に、消えた。
今年もまた、冬が、来る。
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マグロの日に寄せて。
あれからもう、一年になるのですね。
船オフも大盛況のうちに無事終わったようで、幹事のみなさま、参加者の皆様、ご苦労さまでした。
これから始まる あらたな一年を祝って。