言葉に抱かれる、そんなsexもあるのだと思う。
たった一つの言葉があるから待ち続けることができる、そんな小夜子を、友人は馬鹿な女だと哀れむが、小夜子にしてみれば、自分はむしろ器用なのだと思う。
彼が残した当の言葉は、噛み締めすぎて味のなくなったスルメみたいに、もうなんの感慨も呼び起こすことはなくなっており、その言葉を呟いたところで言葉どおり彼が戻ってくるなぞという幻想はもう、なんの現実味も持っていなかった。
にもかかわらず、信じているふりをして待ち続けることのできる自分は、文字通り器用な女で、待たれる方も(かりに待たれていると知ることがあるとすれば、の話だが)、迷惑なことだと、もう顔も覚えていない彼に同情さえしているのだ。
そもそも自分は、待っているのだろうか。
それとも、待つ振りをして、時間をつぶしているのだろうか。
いや、時間をつぶしている、というのは正確ではない。
小夜子にとって時は流れていくものではなく、とどまり続ける澱みのようなものであるのだから。
そう小夜子にとって時は、澱みであった。
流れもせず、過ぎ去りもせず、無限に細かい反復によってその場を汚し続ける澱み。
だから一見「待つ」とも見える彼女の動作は結局のところ、たった一つの快感をできるだけ長く味わっていたいという動機による、時への冒涜であるのかもしれなかった。
すれ違った男の残り香をじっと立ち尽くして味わうように、小夜子は、あの晩のあの言葉の前に、立ち止まり続けていた。
それほどまでに、彼の言葉は小夜子の心を、というよりはむしろ身体を縛ったというわけか。
独り寝の夜、冷たい布団に身を横たえ、小夜子はじっと目を閉じ、あの夜へと遡る。
何度も何度も記憶の底から引き出して味わいつくしたそれは、もはや原型を留めぬまでに変性していたが、それでも小夜子は、あの晩駆け抜けた痺れをまざまざとその身体に思い出すことができた。
しんと静まり返った沼にそっと投げ入れられた小石のように、その言葉は小夜子の皮膚をざわざわと粟立たせ、手の先に始まった痺れはほとんど痛みともいえる鋭さでもって腕から胸へと駆け上がり、喉元を締め付け、小夜子は思わず湿った悦楽の吐息を吐く。
波が逃げないように吐きかけた吐息を短く切ると、息を止め、痺れが津波のように体中を騒がせて引いていくのを待つ。
いつまでこれが続くのだろうか。
その言葉を吐いた人はもういないというのに。
小夜子をここから連れ出すのは、彼の言葉を凌駕する新しい言葉であるのだろうか。
それとも、かの言葉をかき消す荒々しい身体の力であるのだろうか。
そのどちらでもなければいのに。
身体より心を先に奪い去るそんな出来事であればいいのに。
小夜子はそう願っていたが、同時にそれが自分の望むところではないことも知っていた。
こうして時の澱みに留まり続けることが いつまで赦されるのだろうか。
時の流れは残酷で そして否応なく優しい。