蚊とゴキブリ
蚊
去年の 秋だった。
季節はずれの蚊が 腕にとまった。
そのときは どうしてなのだろう、 なぜか 叩き潰さずに 見入ったんだ。
冗談のような 細い足。
黒いお尻が 規則的に 上下し
私の血が 彼女を満たしていくのを 感じる。
どくっ どくっ どくっ。
彼女の生殺与奪の権を 一手に握りながら
なぜか 私は 動けずにいた。
彼女は 私の存在を 知っていたのだろうか。
今にも 自分を殺そうと 思案している 怪物の視線を その背中に 感じながら
あそこまで 見事に
無我の境に 至れるものなのだろうか。
彼女の生き死に 彼女の存在が
まさに
私の皮膚の 0.1mmにも満たない 小さな穴に 凝縮されていた。
彼女の集中力が
私という存在を 凌駕し
私は この至福の時間が このまま 永遠であれとさえ 願った。
季節はずれの 蚊刺されは ことのほか 痒く
至福の時間の代償に 掻き壊して かさぶたのできた私の 腕。
高地のためか 私の町ではめったにゴキブリを見ないので 代わりに
蝿
ごみを なかなか出せずにいたら
口を縛った ごみ袋の中に
小蝿を 一匹 見つけた。
仕事の都合上 すぐにごみを出せる 予定は無く
ビニールのごみ袋の 内側に
じっと 張り付いている 彼女が 気の毒で
思わず 袋の 端から
野菜くず と 肉片を 差し入れた。
次に 気づいた時には
袋の中には
彼女の 子供たちが
いっぱいに
元気よく
飛び回っていた。
仕方が無いので 霧吹きで 水を与え
追加の えさを 差し入れ
さて どうしたものか。
暖かい 家の中で
知らずに孵った子供たちを
寒風の中に 解き放つのは しのびなく
かといって
定期的に えさを ごみ袋に入れてやるほどの
甲斐性も なく
仕方なく
家の中に 放した。
わたしが ご飯を食べていると
ぶんぶん ぶんぶん
五月蝿くてしょうがない。
第一 蝿は 汚いという。
蝿に媒介される 疾患も ある。
蝿を放し飼いにするなんて 医師にあるまじき行為 かもしれない。
友達は 殺せ という。 殺虫剤を ひとまきすれば 解決だ と。
だが 家の中で生まれ 野菜くずと 肉を食べ 外に出たことの無い この子達は
果たして 汚いのか。
迷っているうちに
本当の冬がきて
どこへともなく みんな いなくなった。
そして また 春。