これは そもそも理系/文系という区分って何? というところから始まった一連のやりとりの1節です。
理系/文系 (1)から順にお読み下さい。
すみません 止まらなくなってしまったabsinthです。
GALANT's Cafeさんに再TB。
まずは 理系/文系を どう定義するか、 話しはそこからですね。
GALANT's Cafeさんの定義(GALANT's Cafeさん曰く まだ美しくないモデル)はこうでした。
・理系:再現性がないと困る現象を、ターゲットにする
・文系:再現性がなくても困らない現象を、ターゲットにする
うーん なるほど。
でも GALANT's Cafeさん。
「困る」っていうのはいくらなんでも 「典型的理系」のGALANT's Cafeさんにあるまじき定義ではありませんか^^
でも言わんとするところはよく分かります。
ここでのキーワードは 「再現性」ですね。「普遍性」と言ってもいいかもしれません。
詩や小説は確かに再現性がなくてもかまいません。
読み手の理解力やそれが置かれている文脈、バックグラウンドによって、様々な意味を読み込むことができますし、それを楽しむことすらあります。
でも例えば 「神とはなにか」「人はなぜ生きるか」 こういった思考についてはどうでしょうか。
自分ひとりで勝手に考えている場合はともかく 多くの思索者は 自分の解答が普遍性を持ちうるのかどうかについて 関心を抱くはずです。
つまり「困る」かどうかは別にして 思想、思考は学問と名乗る以上 自然科学を対象にしたものであろうと 人間の心理や価値を対象にしたものであろうと 普遍性をその究極に求めるものである とはいえませんか。
ターゲットの要求する再現性による分類は ちょっと難しそうです。
では 理系的思考と文系的思考はどう違うのでしょうか。
ここで GALANT's Cafeさんはもうひとつ 素敵なことを述べていらっしゃいます。
(理系分野では)ある1つの現象を説明するために、たった1つの究極モデルを追い求め、そのモデルについて、誰もが一意にしか解釈できない表現を必用とする。
ここでのキーワードは「一意にしか解釈できない」ですね。
じゃあ 「文系的思考」においては「一意にしか解釈できない」ということは 必要とされないんでしょうか。
いや それでは困ってしまいます。
導き出される結果に普遍性を求めることができなくなってしまいますから。
だとすると 「一意にしか解釈できない」の意味するところが違うのでしょうか。
文系的思考においても 言葉の定義の厳密さ は確かに要求されます。
でもそれは その文が置かれた文脈と相互補完的なものである そんなふうに思います。
その文脈において「一意にしか解釈できない」 ことが求められるのではないでしょうか。
「他者」「シニフィアン」「超越」「現実」・・・・
こういった言葉は 確かに厳密な定義をもって 使われるべきです。
しかしその定義は 普遍的なものではなく その作者がその文脈においてどう定義しどう使用しているかに 関わってくるものです。
だから 文系的思考においては 数学の公式のように その文だけを取り出して全く違う文脈の中に置くということは 好まれません。
(a+b=b+a というのはどの文脈で持ち出してもその意味するところは変わりませんが、「人間は考える葦である」という言葉は、少なくとも解剖学の文脈で用いられるべきではありませんね)
読解力・理解力というのは この「文脈を理解する力」のことだと思います。
「その文脈におけるその言葉の定義」 という特殊性に敏感であること それが読解力を支持します。
でもそれだけじゃあ まだまだです。
上のことと表裏になりますが 言葉の多義性に敏感である力 を 文系的能力の定義に付け加えましょう。
文系的思索は 言葉とその定義の一対一対応を正確に把握するだけでは 深まりません。
それだけでは 哲学書はうわっつらの格言集みたいになってしまいます。
ひとつの言葉に別の意味を読み込む力があってこそ ひとつの思考と別の思考が繋がり 深まり 広がっていくのだと思います。
誰しも ひとつの文において言葉の定義をちょっと入れ替えるだけで 全く別の思考が現れてくるさまを 見たことがあると思います。
a+b=b+a のa, b にはどんな数字を入れてもかまいません。
その種類は無限にあります。
しかし いずれにせよ この式が意味するところはなにも変わりません。
しかし「他者」という言葉に どんな意味を読み込むか は それを含む文の意味を全く違ったものに変えてしまいます。
例えば 「主体の欲望は他者の欲望である」
このなかで使われている<他者>は 作者なりの明確な定義があるはずですが
でもどうでしょう、 そんなもの知らなくたって この言葉が私たちの中に生み出す 多様な意味が確かにあり それがこのフレーズの普遍性を試し そしてより広げている、そうは思えませんか。
私たちは このフレーズを 作者がどういう意味で使い、何を伝えたかったのか ということについて 文脈に誠実に読んでいくことができます。
その一方で このフレーズの各々の単語に 自分の慣れ親しんだ意味での <他者><欲望><主体>を当てはめることによって このフレーズを自分なりに楽しむことができます。
そうしたうえで このフレーズが置かれたもとのテキストに戻ってみると どうでしょう
作者の意図しなかった でももっと深く広い意味をまとって そのテキストが浮上してくる様をまざまざと感じ取ることができるではありませんか。
作者がその文脈でどう使っているかを把握した上で あえてずらしてみる というか はずしてみる そういった柔軟性が 文系的能力に求められている、こう言うことはできないでしょうか。
言葉を(どこのます目に置いてもその担う意味は変わらない)碁石のようなものとして捉え その定義を厳密に厳密に追い求めていく いわば 「そぎ落とし」 の思考法と
言葉を (その場にあわせて色も形も変えてしまう)ウミウシみたいなものとして捉え その言葉が含む幾多の意味を積極的に肯定していく いわば「増幅」の思考法
私はこんな風に 理系的思考/文系的思考を定義してみようと思います。
ええと あれ なんて言うんでしたっけ?
ガムの付録とかで付いてくるカード。
正面から見たときと斜めから見たときとで 見えるものが変わるようにできているきらきらした カード。
私にとって言葉とは ああいう感じのものです。
堅苦しい文章の中で いかめしい顔をしてじっとしているように見えて
こちらが安心して定義して読解しようとすると
次の瞬間には 全く別の意味と顔を付けて けたけた笑い転げているような そんな小悪魔。
私の生み出す言葉も 願わくばそのようなものであって欲しいと思います。
その文脈では たったひとつのことを訴えているようでいて
でもそれが 受け手の耳に入ったとたん それぞれの言葉が幾多の意味を得て輝きだし
元の文の表面的な意味など 凌駕してしまうような
言葉の持つ多義性に耐えうる そんな言葉を生み出したいと 思っています。
あれあれ 文系的思考 についての考察だけで こんなところまできてしまいました。
なかなか 理系/文系の区分まで たどり着きません。
まだまだ 続けていきます。