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脅しや苦情によって他人を動かすことができると思っているひとたちは不幸だ。 精一杯を尽くしている者は、脅しや苦情じゃ動かない。 賢くあろう、出し抜かれまい、と体を固くしているひとたちは不幸だ。 鎧は角となり隣人を貫き巡り巡って自らを刺す刃となるだろう。 ひとの善意を信じることのできぬひとたちは不幸だ。 最も美しいものに盲目なのだから。 不当な手段で運命から逃れようとしないこと。 分相応をすぐに忘れたがる欲望を注意深く監視すること。 得をしようと思わないこと。 そうすれば愚鈍でいてもちっとも怖くない。
とある患者家族とのトラブルをきっかけに心身ともに「どこかちょっと調子悪い」状態が続いていた。なんのミスがあったわけでもないことを双方了解したうえでの、「にもかかわらず」のやりとりは、家族がひとつの死をうけいれるために必要なプロセスだったのだと頭では分かりながら、鋭い言葉にえぐられたダメージは自分で思う以上だったのかもしれない。いや、言われた言葉よりも何よりも、その人が亡くなるまでの三か月、私は本当に患者のことだけを思っていたのだろうかという自責の念が自分のこころの奥深い何かをがたがたにすり減らしてしまったような気がする。 先生、失礼なことを言ってすみませんでした。 そう謝られたのがさらに堪えた。悲しみの中にありながらなんとかそう言えたその人をああ、立派な人だと思った。この人が混乱のさなかにあったその時に、私はこの人に見合うだけの真剣さをもって向かい合っていただろうか。私の言葉はどこまでこの人に届いていただろうか。自分を守るための、あるいはまたその場をやり過ごすための、その場しのぎの言葉を吐いたことはなかったろうか。こちらになんの落ち度もない、寿命としか言いようがないというそのことが、私のこころを鈍らせてはいなかったろうか。 鈍い鈍い鈍い私のこころ。弱い弱い私。 弱さは罪だ。
未曽有の災害に直面して 自分にできることはなんだろうかと問うということ。 それは図らずも この社会の中に自分の存在意義を見出すということに 他ならない。 思いを馳せるだけでいいのだ。 それこそ 人間にしかできないことなのだから。 思いは行動を変えるから。 思いは貴方を変えるから。 あなたにできること。 あなたにできること、という未曽有のチャンスが あなたと私を結び付けている。 復興は復旧じゃない、と 誰かが言っていた。
かぎさま >わたしは 命の重さが わからなくなりました。 >命の重さという言葉の意味すら いまはよくわかりません。 >日々 命と向き合っている あぶ先生ならわかるでしょうか? 誤解を恐れずにいえば、命に重さはない、というのが私の答えです。 正確には、命はわたしたちの想像力が及ぶ範囲においてのみ重さをもつ、というべきでしょうか。 家族の命は重い。友人の、隣人の命は重い。目の前の顔の見えるひとの命の重さはそこに、ある。カダフィにとっても、リビアへの空爆を命じた諸国政府高官にとっても、家族の命は重いことでしょう。 でもわたくしの想像の範囲外、海の向こうの肌の色も風習も言葉も宗教も違う場所にある命はちっとも重くなんてないのです。そこでは「命の重さ」という言葉の重さが、命の重さを奪ってしまう。いえ、命は重くないからこそ「命の重さ」という観念が意味を持ちうるのです。 その証拠に、万の命が一瞬で奪われた震災現場で、「命の重さ」などという言葉はまったく聞かれません。「命の重さ」などという観念では背負えない存在の、欠如の重さ、かけがえのなさが、そんな軽い言葉の出る幕をうばっています。近しい隣人の死に際して、命の重さなどという観念だけの、ちっぽけな言葉は出る幕を持ちません。 リビア政府は民間人が何人死んだと嬉しげに発表することでしょう。 欧米政府は民間人の犠牲は何人のみで済んだと意気揚々と発表することでしょう。 だれも死んだその人の顔など思い浮かべやしません。 わたしたちと彼らとの違いは、命の重さという観念に無条件にひれ伏すか、その観念の空虚さを知って利用するかだけの違いです。どちらにしても遠いかの地の命の重さを、本当に背負うことなどできはしません。 命は、この地球上において、貨幣や利権や権力や名誉、イデオロギーその他ありとあらゆる価値と引き換えに差し出される最も軽く効果的な紙幣です。石油利権を失うことに比べたら、束にして差し出される命など安いものです。その代償は片眉をひそめる労力のみで、つまり痛みをもっているというポーズのみで十分なのですから。私たち先進諸国はそうやってこの生活を買ってきたのです。 この世界において、命はもっとも安い貨幣である・・・そのことに目をつぶるべきではありません。 では希望はないのでしょうか。 いいえ。奇しくもこの震災が希望を示してくれました。 計画停電のある地に住みながら、暖房の十分でない避難所を思って東北地方の天気予報を気にすることができるということ。役に立つかわからないけど、暖房の設定を2℃下げずにいられないということ、一瞬迷ってエレベーターではなく階段を行くということ。私たちは今、隣人ではないひとの命に必死になることができている。私たちは今はじめて、命の重さとかエコとか人道的とか、そういう観念ではなく、痛みから行動を選択している。 それが希望です。 命の重さという観念を駆逐するのはこの痛みであり想像力であり、声高に叫ばれる平和ではありません。命の重さという観念がつけいる隙を作らせず、ただただ真剣に行動すること。戦火に追われる人の顔を自分に置き換えて想像すること。何かせずにはいられないという気持ちにおびえないこと。隠さない、抑え込まない、知らぬふりをしない、自分の気持ちに正直でいること。 300Kmの範囲でそれができるのなら、リビアまでの距離はあと少しです。「命の重さ」という観念が持ち出されるほどの遠さ。その遠さをどうやって克服するのか。考えなければいけないのはそのことです。 命は重くない。そう知ることからすべては始まるのだと思います。 こんなに愛している家族、かけがえのない隣人、ふたつとない私の命、それは津波のたったひとなめで海に消えるくらい軽い。海はなにもなかったように沈黙し、遺体すらあがらない。世界は株価を気にし、海の向こうで塩が買い占められる。多くの国から義捐金が届いていますがそれ以上の規模で円の変動に一喜一憂しているひとたちがいる。濁流から伸ばした手をつかみ損ねた痛みとはまるで無縁に、世界は今日も動いている。 同じように、先進国で一杯100円のコーヒー、夜通し昼間のようにライトアップされるメイン通りを実現するために差し出される幾億の命がある。私たちはそのゲームを知りつつ、片眉をひそめる程度の代償しか払ってこなかった。良し悪しを言いたいのではありません。言いたいのは痛みと観念とは違う、ということです。そして世界を変えるのは、観念ではなく、唯一この痛みだけです。 天災によって奪われる命と人災によって奪われる命を同列に扱うべきではないでしょうか。 いいえ、今はじめて私たち日本人は命を紙幣としてやりとりするゲーム盤から降りている。命の重さという観念から一瞬自由になっている。だからこそ見えるものがある。だからこそ感じることのできる痛みがある。今この瞬間のみ私たちは命というリアルに痛みでもって触れている。この瞬間を夢で終わらせないように。ゲームに誘う甘言で再び汚染させないように。再び盲目に戻らないように。 命は重くない。それを知ったうえで、そんなに軽いもの、危ういものをどうやって守ったらいいのかを考えなくちゃいけない。 命は重くないからこそ、全力で守らなくちゃいけない。最も差し出しやすい紙幣だからこそ、それを差し出さずにすむ方法を全力で模索しなくちゃいけない。 そうやって守らなければいくらでも消費されていくでしょう。 これを機会にゲーム盤にのるのはやめたいと思います。ゲーム盤に再び乗るのは復興ではありません。日本は違う道を探すことができると思っています。
遠い、と思う。 自国民を暴力に曝す政府も 人道的支援の名目でミサイルを落とす政府も どちらも とても遠い。 ヒト自らの手で ヒト自らの命と 都市と 文明とを 自由に破壊している そのさまは 自然の猛威になすすべなく叩きのめされた国土から見ると とても遠い。 ほんのちょっと前まで わたしもあちら側に もう少し近かった。 人道的介入とか国連安保理決議とか テロ支援とか石油利権とか 民主主義とか 仕方ないとか ほかに手段がないとか そういう言葉が少しは意味をもっていた。 町を破壊するのに ヒトを破壊するのに そういうコトバが 意味をもつと 少しでも思っていた わたしが いた。 遠い、と思う。 そうだったわたしを 遠いと 思う。 強者の 強者による 自作自演の愚かな祭りを どこか遠い星の出来事のように見やっている。
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